アマデウス(ディレクターズ・カット版)
2008年 02月 22日

ミロス・フォアマンはこの前に「カッコーの巣の上で」で70年代にすでにオスカーを取っているし、これも公開時に見に行って強烈なインパクトを受けた傑作でありましたが、何度も見たい作品となると、これは圧倒的に「アマデウス」に軍配が上がる。
私自身、この映画がモーツァルトの音楽にどっぷりはまり込むきっかけになったし、初めて見た時にも、大いに刺激を受けたその音楽は、その内容をよく知るようになった今、より深く心に響くようになり、それが使われている映像の美しさ(特に室内でのロウソクの光を多用した撮影、キューブリックの「バリー・リンドン」の影響だろう)と相まって、大きな感動を与えてくれるのでありました。
もう、何度も泣くよ、音楽がかかると。
まずは、このピーター・シェーファーの戯曲全般の象徴となる「ドン・ジョバンニ」冒頭のDmの響き、それに続くオープニング・ロールで流れるモーツァルト17歳時作曲の傑作シンフォニー「25番(通称「小ト短調」)にしびれる。ただし、この「25番」に関しては、その楽想の凄さにはノックアウトだが、サウンドトラックにおけるネヴィル・マリナーの指揮は、ブルーノ・ワルターのを耳にしてしまったので、もはや物足りない。
なので、ここではいつも「やっぱりワルターのエグリはすげぇーなぁ」と感心してしまう。
そして、サリエリが初めてモーツァルトの演奏を聞くシーンでの「セレナーデ10番3楽章」。ここでの、サリエリが語る曲の解説(?)が実に的確で、「神からのギフト」であることの感動をより高めている。
「後宮からの誘拐」に始まる、「フィガロ」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」でのオペラ・シーンの映像、演出はどれも最高に素晴らしい。ここでの印象が強くて、実際の歌劇場でこれらを見ると、物足りなさを感じることもある。それほど、魅力的で美しい映像だ。
また、モーツァルトの音楽の中心は「オペラ」であった、ということが、きっちりと示されていて、私にはその後のモーツァルト鑑賞において、大きな指針となったのだ。
だから、それぞれのオペラにおけるここでの的を得た解釈、(サリエリを通しての)解説には、オペラ全体の素晴らしさを知れば知るほど、深く強く共感できる。だから、ずっと涙が流れっ放しであるし、サリエリの嫉妬と敬愛の間で苦悩する心にも納得する。
また、モーツァルトが存命中のウィーンでは一番人気だったという、彼自身が弾きながら指揮する「ピアノ協奏曲」演奏会シーンでの「22番3楽章」は本当にたまりません!このロンドは最高に楽しく明るいのだが、明るければ明るいほど、楽しければ楽しいほど、哀しみがおそってくる。そこでの、映像がこれまた美しくしあがっているので、余計印象的なのだった。
妻コンスタンチェがサリエリに夫のオリジナル譜面を見せ、それを見たサリエリが「書き直しが1つもない、彼の曲は書く前に頭の中で完璧に仕上がっている」と感嘆し、打ちのめされるシーン、そこで流れる「フルートとハープのための協奏曲」「交響曲第29番」などの抜粋も、一瞬流れるだけで溜息が出る。
そしてクライマックスとも言える、死を前に「レクイエム"ラクリモサ"」をサリエリに口述筆記させるシーンでの、パートごとの演奏と、それが組み合わさった時の興奮とかっこよさをどう賞賛すれば良いのか。
実際に、この「レクイエム」はモーツァルト自身での完成に至らず、残りを弟子のジュースマイヤーにメロディとベース音を託し、彼の補筆によって仕上がったのだった。(だが、近年このジュースマイヤーの部分に批判が多く、研究者による改訂版が登場している)
また、この「レクイエム」にまつわるエピソード(ワルゼック伯爵の企み)とモーツァルトの早い死が、サリエリ毒殺説にまで発展し、それがこの戯曲・映画の下敷きになっているのだった。
なので、実際のモーツァルトの人生を調べて行くと、この映画における創作、脚色された部分が極めて興味深いし、その巧みなバランス感覚(フィクション性とハリウッド色)が娯楽作品としての面白さをも十分に感じさせてくれ、ピーター・シェーファーの才能とそれを完璧に映像化したフォアマンを高く評価したいのだった。
また私は、ヘッセの小説「荒野の狼(ステッペン・ウルフ)」からの影響もあるのではないかと考えている。主人公が自らの才能を疑い精神を病み、ドラッグにはまり、その幻惑した世界で、憧れと嫉妬の対象である天才(この本ではゲーテとモーツァルト)にこてんぱんに叩きのめされていくところなど、似ている部分があるし、天才がけたたましい高音の笑い声を上げるところや、クライマックスで「ドン・ジョバンニ」の"騎士長の場"が現れる部分にも、関連性を感じてしまう。
さて最後、サリエリは自らを「凡人の守り神」であると語るのだが、圧倒的な天才の能力をしっかり把握した彼も大いに讃えるべきではないかな、と最近思う。真に偉大なるもの、美しいものを理解することは実はとても難しいし、特にモーツァルトのようなとんでもない存在に出くわす事は、自らの死につながる苦悩を背負い込むことでもあると思う。

とは言え、それでも全体をブチ壊すもの(例えば「ニューシネマ・パラダイス」のディレクターズ・カット版の酷さ)にはなっていなかったし、オリジナルを良く理解している人には、特典映像をはさんで見る楽しさがあるだろう。
とにかく、全編を流れるモーツァルトの音楽に非の打ち所なし、何がどうあろうとも、この素晴らしさに勝てるものはない。エンドロールも結局最後まで見てしまう。なぜなら、そこに「ピアノ協奏曲20番2楽章」が流れるからだ。物語を堪能した後の、このあまりにも美しい音楽にただただ感服するのみだ。

それにしても、あの映画の一番のキャッチの部分は一番最初にモーツァルトが「あの声で」笑うところでしょうね。

ヤマケンさん、どうもです。モーツァルト役だったトム・ハルスはこのためにピアノを猛練習して、かなりの部分自分で弾いていたそうです。子供のころにやっていたのかもしれないですが、それでも大したものです。
でも、オスカー(主演男優)をサリエリ役のF・マーレイ・エイブラハムに譲って以後、全くもってパっとしない感じが残念です。燃え尽きちゃったかなぁ。
僕はこのおバカでサルのようなモーツァルトが大好きなんですが。
naoさん、こんにちは。
一度オキタさんの家(だったか?)で、皆で「クラリネット協奏曲」を聴いた記憶があります。でも、僕の創作かな?
ところで、この映画の撮影監督はキューブリックに「バリー・リンドン」で使った高感度カメラを借りようと頼んだのですが、断られてしまったそうです。
ヘッセって確かに若き日の云々...ってイメージがありますね。ただ「荒野の狼」は一時ヒッピーのバイブル(たぶん、トンデる描写が多いから?)って言われていたから、すごく印象が強いし、「ゴルトムント」とともに一番好きかな。
