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日米関係

 前項前々項につづき、カレル・ウォルフレン氏の論文からの一部を掲載します。

日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その3)=カレル・ヴァン・ウォルフレン
2010年3月19日 中央公論
より
 鳩山が対米外交において失策を重ねていると批判する人々は、ことアメリカとの関係においては正常な外交というものが存在しない事実を見過ごしにしている。なぜならアメリカはこれまでも日本を、外交には不可欠な前提条件であるはずの真の主権国家だとは見なしてこなかったからである。そして日本は最後にはアメリカの望み通りに従うと、当然視されるようになってしまったのだ。

 しかしこれまで日本が国際社会で果たしてきた主な役割が、アメリカの代理人としての行動であった事実は重い意味を持つ。つまり日本は、基本的な政治決定を行う能力を備えた強力な政府であることを他国に対して示す必要はなかった、ということだ。これについては、日本の病的と呼びたくなるほどの対米依存症と、日本には政治的な舵取りが欠如しているという観点から熟考する必要がある。

 アメリカが、中国を封じ込めるための軍事包囲網の増強を含め、新しい世界の現実に対処するための計画を推進していることは、歴然としている。そしてその計画の一翼を担う存在として、アメリカは日本をあてにしているのである。
 かくしてアメリカにとって沖縄に米軍基地があることは重要であり、そのことにアメリカ政府はこだわるのである。しかしアメリカという軍事帝国を維持するために、それほどの土地と金を提供しなければならない理由が日本側にあるだろうか? 日本の人々の心に染み付いた、アメリカが日本を守ってくれなくなったらどうなる、という恐怖心は、1989年以来、一変してしまった世界の状況から考えて、ナイーブな思考だとしか評しようがない。
 
 筆者は、日本がアメリカを必要としている以上に、アメリカが日本を必要としているという事実に気づいている日本人がほとんどいないことに常に驚かされる。とりわけ日本がどれほど米ドルの価値を支えるのに重要な役割を果たしてきたかを考えれば、そう思わざるを得ない。しかもヨーロッパの状況からも明らかなように、アメリカが本当に日本を保護してくれるのかどうかは、きわめて疑わしい。
 まったく取るに足らない些細な出来事が、何か強大なものを動揺させるとすれば、それはそこに脅しという権力がからんでいるからだ。アメリカが日本に対して権力を振るうことができるとすれば、それは多くの日本人がアメリカに脅されているからだ。彼らは日本が身ぐるみはがれて、将来、敵対国に対してなすすべもなく見捨てられるのではないか、と恐れているのだ。
 
 そして日本の検察は、メディアを使って野心的な政治家に脅しをかけることで、よりよい民主国家を目指す日本の歩みを頓挫させかねない力を持っている。
 
 この両者は、日本の利益を考えれば、大いなる不幸と称するよりない方向性を目指し、結託している。なぜなら日本を、官僚ではなく、あるいは正当な権力を強奪する者でもない、国民の、国民による、そして国民のための完全なる主権国家にすべく、あらゆる政党の良識ある政治家たちが力を合わせなければならない、いまというこの重大な時に、検察はただ利己的な、自己中心的な利益のみを追求しているからである。そしてその利益とは、健全な国家政治はどうあるべきか、などということについては一顧だにせず、ただ旧態依然とした体制を厳格に維持することに他ならないのである。

 アメリカがこの問題(普天間問題)について、相当の譲歩をせず、また日米両国が共に問題について真剣に熟考しないうちは、たとえ日本が5月と定められた期限内に決着をつけることができなかったとしても、日本に不利なことは何ひとつ起こりはしない。
 
 それより鳩山政権にとっては、国内的な脅しに対処することの方が困難である。普通、このような脅しに対しては、脅す側の動機や戦略、戦法を暴くことで、応戦するしかない。心ある政治家が検察を批判することはたやすいことではない。すぐに「検察の捜査への介入」だと批判されるのがおちだからだ。つまり検察の権力の悪用に対抗し得るのは、独立した、社会の監視者として目を光らせるメディアしかないということになる。
 
 日本のメディアは自由な立場にある。しかし真の主権国家の中に、より健全な民主主義をはぐくもうとするならば、日本のメディアは現在のようにスキャンダルを追いかけ、果てはそれを生み出すことに血道を上げるのを止め、国内と国際政治の良識ある観察者とならなければならない。そして自らに備わる力の正しい用い方を習得すべきである。さらに政治改革を求め、選挙で一票を投じた日本の市民は、一歩退いて、いま起こりつつあることは一体何であるのかをよく理解し、メディアにも正しい認識に基づいた報道をするよう求めるべきなのである。(了)

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by harukko45 | 2010-09-17 01:42 | 日々のあれこれ

小沢一郎の価値

 前項からの続きで、カレル・ウォルフレン氏の論文からの一部を掲載します。

日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その2)=カレル・ヴァン・ウォルフレン
2010年3月19日 中央公論
より

 日本の新聞は、筆者の知る世界のいかなるメディアにも増して、現在何が起こりつつあるかについて、きわめて均質な解釈を行う。そしてその論評内容は各紙互いに非常によく似通っている。かくして、こうした新聞を購読する人々に、比較的大きな影響を及ぼすことになり、それが人々の心理に植えつけられるという形で、政治的現実が生まれるのである。
 このように、日本の新聞は、国内権力というダイナミクスを監視する立場にあるのではなく、むしろその中に参加する当事者となっている。有力新聞なら、いともたやすく現在の政権を倒すことができる。彼らが所属する世界の既存の秩序を維持することが、あたかも神聖なる最優先課題ででもあるかのように扱う、そうした新聞社の幹部編集者の思考は、高級官僚のそれとほとんど変わらない。

 これまで日本のメディアが新しい政府について何を報道してきたかといえば、誰の役にも立ちはせぬありふれたスキャンダルばかりで、日本人すべての未来にとって何が重要か、という肝心な視点が欠落していたのではないか。
 
 小泉は政治改革を求める国民の気運があったために、ずいぶん得をしたものの、現実にはその方面では実効を生まなかった。彼はただ、財務省官僚の要請に従い、改革を行ったかのように振る舞ったにすぎない。だがその高い支持率に眼がくらんだのか、メディアは、それが単に新自由主義的な流儀にすぎず、国民の求めた政治改革などではなかったことを見抜けなかった。

 彼が政権を去った後、新しい自民党内閣が次々と誕生しては退陣を繰り返した。自民党は大きく変化した国内情勢や世界情勢に対処可能な政策を打ち出すことができなかった。なぜなら、彼らには政治的な舵取りができなかったからだ。自民党の政治家たちは、単にさまざまな省庁の官僚たちが行う行政上の決定に頼ってきたにすぎない。
 こうしてポスト小泉時代、新聞各紙が内閣をこき下ろすという役割を楽しむ一方で、毎年のように首相は代わった。
 
 このような展開が続いたことで、日本ではそれが習慣化してしまったらしい。実際、鳩山政権がもつかどうか、退陣すべきなのではないか、という噂が絶えないではないか。たとえば小沢が権力を掌握している、鳩山が小沢に依存していると論じるものは多い。だがそれは当然ではないのか。政治家ひとりの力で成し遂げられるはずがあろうか。しかし論説執筆者たちは民主党に関して、多くのことを忘れているように思える。
 
 そして山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。小沢がいなかったら、1993年の政治変革は起きなかっただろう。あれは彼が始めたことだ。小沢の存在なくして、信頼に足る野党民主党は誕生し得なかっただろう。そして昨年8月の衆議院選挙で、民主党が圧勝することはおろか、過半数を得ることもできなかったに違いない。
 
 小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりであることは疑いない。ヨーロッパには彼に比肩し得るような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
 小沢はその独裁的な姿勢も含め、これまで批判され続けてきた。しかし幅広く読まれているメディアのコラムニストたちの中で、彼がなぜ現在のような政治家になったのか、という点に関心を持っている者はほとんどいないように思える。小沢がいなかったら、果たして民主党は成功し得ただろうか?
 
 民主党のメンバーたちもまた、メディアがしだいに作り上げる政治的現実に多少影響されているようだが、決断力の点で、また日本の非公式な権力システムを熟知しているという点で、小沢ほどの手腕を持つ政治家は他には存在しないという事実を、小沢のような非凡なリーダーの辞任を求める前によくよく考えるべきである。

 長い間留守にした後で、日本に戻ってきた昨年の12月から今年の2月まで、大新聞の見出しを追っていると、各紙の論調はまるで、小沢が人殺しでもしたあげく、有罪判決を逃れようとしてでもいるかのように責め立てていると、筆者には感じられる。
 小沢の秘書が資金管理団体の土地購入を巡って、虚偽記載をしたというこの手の事件は、他の民主主義国家であれば、その取り調べを行うのに、これほど騒ぎ立てることはない。まして我々がいま目撃しているような、小沢をさらし者にし、それを正当化するほどの重要性など全くない。しかも検察は嫌疑不十分で小沢に対して起訴することを断念せざるを得なかったのである。なぜそれをこれほどまでに極端に騒ぎ立てるのか、全く理解に苦しむ。検察はバランス感覚を著しく欠いているのではないか、と考えざるを得なくなる。
 
 しかもこのような比較的些細なことを理由に民主党の最初の内閣が退陣するのではないか、という憶測が生まれ、ほぼ連日にわたって小沢は辞任すべきだという世論なるものが新聞の第一面に掲載されている様子を見ていると、たまに日本に戻ってきた筆者のような人間には、まるで風邪をひいて発熱した患者の体温が、昨日は上がった、今日は下がったと、新聞がそのつど大騒ぎを繰り広げているようにしか思えず、一体、日本の政治はどうなってしまったのかと、愕然とさせられるのである。
 つい最近、筆者が目にした日本の主だった新聞の社説も、たとえ証拠が不十分だったとしても小沢が無実であるという意味ではない、と言わんばかりの論調で書かれていた。これを読むとまるで個人的な恨みでもあるのだろうかと首を傾げたくなる。日本の未来に弊害をもたらしかねぬ論議を繰り広げるメディアは、ヒステリックと称すべき様相を呈している。

 いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうこととは、まさに権力闘争である。これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。しかしキャリア官僚たちの権力など、ひとたび新聞の論説委員やテレビに登場する評論家たちが、いま日本の目の前に開かれた素晴らしい政治の可能性に対して好意を示すや否や、氷や雪のようにたちまち溶けてなくなってしまう。世の中のことに関心がある人間ならば、そして多少なりとも日本に対して愛国心のある日本人であるならば、新しい可能性に関心を向けることは、さほど難しいことではあるまい。


次項に続く。
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by harukko45 | 2010-09-17 01:27 | 日々のあれこれ

 タイトルはオランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の有名著作のもの。そしてそれは、そのまま現在も我が国にあてはまる。今更ながらに、彼の分析は鋭く、全てを言い当てていると感じる。

 今年の3月に中央口論に書かれた彼の新しい論文「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」を読み返し、現状の日本を見てみるとますます暗澹たる思いでいっぱいになる。だが、私はこれを読んで真実はどこにあるのか考えたい。特に小沢一郎氏への評価と、日本の検察・官僚・マスコミについての分析と問題提起は実に興味深い。

 一部抜粋してここに掲載してみたいと思うが、長文であるものの、どの部分もカットするに忍びない。なので、抜粋も長くなった。

日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン
2010年3月19日 中央公論より

 いま日本はきわめて重要な時期にある。なぜなら、真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっているからだ。いや、それ以上の意味がある。もし民主党のリーダーたちが、理念として掲げる内閣中心政権を成功裏に確立することができるならば、それは日本に限らず地球上のあらゆる国々に対し、重要な規範を示すことになるからである。それは我々の住む惑星の政治の流れに好ましい影響を与える数少ない事例となろう。
 
 各地で戦争が勃発し、経済は危機的な状況へと向かい、また政治的な機能不全が蔓延するこの世界に、望ましい政治のあり方を示そうとしているのが、他ならぬこの日本であるなどと、わずか数年前、筆者を含め誰に予測し得たであろうか。ところがその予測しがたいことが現実に起きた。初めて信頼に足る野党が正式に政権の座に就き、真の政府になると、すなわち政治の舵取りを行うと宣言したのだ。だが、民主党政権発足後の日本で起こりつつある変化には、実は大半の日本人が考えている以上に大きな意味がある、と筆者は感じている。

 民主党が行おうとしていることに、一体どのような意義があるのかは、明治時代に日本の政治機構がどのように形成されたかを知らずして、理解することはむずかしい。当時、選挙によって選ばれた政治家の力を骨抜きにするための仕組みが、政治システムの中に意図的に組み込まれたのである。そして民主党は、山県有朋(1838〜1922年、政治家・軍人)によって確立された日本の官僚制度(そして軍隊)という、この国のガバナンスの伝統と決別しようとしているのである。

 いま民主党が自ら背負う課題は、重いなどという程度の生易しいものではない。この課題に着手した者は、いまだかつて誰ひとり存在しないのである。手本と仰ぐことが可能な経験則は存在しないのである。民主党の閣僚が、政策を見直そうとするたび、何らかの、そして時に激しい抵抗に遭遇する。ただし彼らに抵抗するのは、有権者ではない。それは旧態依然とした非民主主義的な体制に、がっちりと埋め込まれた利害に他ならない。まさにそれこそが民主党が克服せんと目指す標的なのである。

 明治以来、かくも長きにわたって存続してきた日本の政治システムを変えることは容易ではない。システム内部には自らを守ろうとする強力なメカニズムがあるからだ。一年ほど日本を留守にしていた(1962年以来、こんなに長く日本から離れていたのは初めてだった)筆者が、昨年戻ってきた際、日本の友人たちは夏の選挙で事態が劇的に変化したと興奮の面持ちで話してくれた。そのとき筆者は即座に「小沢を引きずり下ろそうとするスキャンダルの方はどうなった?」と訊ね返した。必ずそのような動きが出るに違いないことは、最初からわかっていたのだ。

 なぜか? それは日本の官僚機構に備わった長く古い歴史ある防御機能は、まるで人体の免疫システムのように作用するからだ。

 いまから19年前、日本で起きた有名なスキャンダル事件について研究をした私は『中央公論』に寄稿した。その中で、日本のシステム内部には、普通は許容されても、過剰となるやたちまち作用する免疫システムが備わっており、この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である、と結論づけた。
 
 さて、この日本の非公式な権力システムにとり、いまだかつて遭遇したことのないほどの手強い脅威こそが、現在の民主党政権なのである。実際の権力システムを本来かくあるべしという状態に近づけようとする動きほど恐ろしいことは、彼らにとって他にない。そこで検察とメディアは、鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。

 ある意味では現在の検察官たちの動きを見ていると、そこにいまなお司法制度を政府という存在を超えた至高なる神聖な存在とする価値観が残っているのではないか、と思わせるものがある。オランダにおける日本学の第一人者ウィム・ボートは、日本の検察は古代中国の検閲(秦代の焚書坑儒など)を彷彿させると述べている。
 
 日本の検察官が行使する自由裁量権は、これまで多くの海外の法律専門家たちを驚かせてきた。誰を起訴の標的にするかを決定するに際しての彼らの権力は、けたはずれの自由裁量によって生じたものである。

 しかしある特定人物に対して厳しい扱いをすると決めた場合、容疑者を参らせるために、策略を用い、心理的な重圧をかけ、さらには審理前に長く拘禁して自白を迫る。検察官たちは法のグレーゾーンを利用して、改革に意欲的な政治家たちを阻もうとする。どんなことなら許容され、逆にどのようなことが決定的に違法とされるのかという区分はかなりあいまいである。

 ところで日本にはさまざまな税に関する法律に加えて、きわめてあいまいな政治資金規正法がある。検察はこの法律を好んで武器として利用する。検察官たちの取り調べがいかに恣意的であるかを理解している日本人は大勢いる。それでもなお、たとえば小沢の支持者も含めて多くの人々が、彼が少なくとも「誠意ある態度」を示して、謝罪すべきだと、感じていることは確かだ。
 
 これなどまさに、非公式な権力システムと折り合いをつけるために要請される儀礼行為とも言えるだろう。儀礼の舞台は国会であり、また民主党内部でもあり、国民全般でもある。新聞各紙は「世論が求めている」などと盛んに騒ぎ立てているが、本当のところはわからない。しかも詫びて頭を下げ、あるいは「自ら」辞任するとでもいうことになれば、そのような儀礼行為は、実際には非公式のシステムに対して行われるのである。

 体制に備わった免疫システムは、メディアの協力なくしては作用しない。なぜなら政治家たちを打ちのめすのは、彼らがかかわったとされる不正行為などではなく、メディアが煽り立てるスキャンダルに他ならないからだ。検察官たちは絶えず自分たちが狙いをつけた件について、メディアに情報を流し続ける。そうやっていざ標的となった人物の事務所に襲いかかる際に、現場で待機しているようにと、あらかじめジャーナリストや編集者たちに注意を促すのだ。捜査が進行中の事件について情報を漏らすという行為は、もちろん法的手続きを遵守するシステムにはそぐわない。しかし本稿で指摘しているように、検察はあたかも自分たちが超法規的な存在であるかのように振る舞うものだ。


次項に続く。
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by harukko45 | 2010-09-17 00:54 | 日々のあれこれ

民主党代表選

 菅氏が圧勝して再選された。正直、かなりの虚脱感と拭いきれない失望感で一杯だ。自分はサポーターではないから投票参加できないわけだが、ここまで大差がついての結果は驚きをも通り越した。
 インターネットでの支持では小沢氏が圧倒していても、大手メディアでの「世論調査」ではずっと菅氏の優位が伝えられていた。それがやはり正しく、ネットでの意見はまだまだ少数派でしかないということか。そして、これまで2年近く「小沢バッシング」を繰り広げた大手マスコミの大勝利であり、ついに小沢一郎にとどめを刺したということ。おかげで、もうこれ以後しばらくはこの国には何も起きないだろう。
 何も変わらない日本、全くリスクを取らず、予定調和な安心のみをのぞみ(抑止なき宥和)、そしてじょじょに衰退の道を進む日本は、実につまらん。結局のところ我が国は、理性よりも感情やムード、イメージだけで判断し、物事を選択していくのだろう。私は昨年の夏に政権交代をのぞんで民主党に投票したことにさえ、後悔したくなっている。これだって、情緒的な選択だったのかもしれないからだ。

 今日の演説において、あまりにも貧弱で中味がない内容だった菅総理に、深い深い絶望感を抱いたのは私だけではあるまい。

 「政治とカネ」とは何と都合のいいキャッチフレーズか。この国の進路を決めてしまった全国の民主党員・サポーターは本当に小沢氏の「政治とカネ」の問題を理解しているのか。小沢氏は説明が足りないとの意見は、要するに「皆さんの思う通り(検察とマスコミに刷り込まれた通り)、私は賄賂をもらいました」と言うまで、絶対に静まるわけがない。結局は、「出る杭は打たれる」方式で、小沢氏が切腹するのが見たいだけ。それが日本だ。この点については、小沢氏の主張の方が全うだ。「プロである検察が強制捜査したにもかかわらず、2回も不起訴になっており、何もやましいことはない」。

 そもそも、自由主義国家、資本主義経済において「カネがかからない政治」なんてありえない。「クリーンな政治」なんて言っている方が、純情青年の理想論であって危なっかしい。そんな精神構造で、どうやってアメリカや中国と対等につきあうというのか。問題は実際に仕事ができるのかどうかでしかない。

 はっきり言って、日本人の異常なまでの「スキャンダル狂い」と「潔癖性」は自らによって自らの国を滅ぼす。誰がどう見たって実力のある政治家を潰して、「クリーンと言われている」だけの人物を担ぎ上げた民主党の党員達は、今後の日本を左右する重要な分岐点で、とてつもなく大きな決断に深く関わったという責任を肝に命じるべきだ。
 ある意味、これが明治維新での「西南戦争」であり、敗れた小沢氏は西郷隆盛だったというのであるなら、まだ望みがあるかもしれない。が、勝ち残った人が果たして大久保利通なのかははなはだ疑問であり、深い憂慮を禁じ得ない。
 彼らはきっと日本を良くすることはできないだろうが、少なくとも沈没するのを防がなくてはならない。それだけの大きな責任を強く感じて欲しい。そうでなくては、全く持ってやってられない。

 これが本当の政治不信であり、政治不安ではないのか。
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by harukko45 | 2010-09-14 16:53 | 日々のあれこれ

このところ

 6月5日からシンガポールに行っておりまして、今日帰ってきました。
 
 久しぶりのシンガ訪星でしたが、とことんB級グルメにこだわって、大好きなホーカー巡りをしてきました。シンガポールに行く理由は、ほんとに「メシを食ってくる」のみなのですが、これがなかなか奥が深くって、知れば知るほど、食べれば食べるほどに、新しい刺激と楽しみに満ちているのでした。
 今回だけでなく「魅惑のシンガ、食いだおれ旅行」については、いずれまとめてみたいと思いますが、明日からサッカー・ワールドカップが始まりますので、やはりどうしてもそちらが優先になってしまいそうです。

 そんでもって、日本代表。今頃になって、本田1トップでの3ボランチ、岡崎と中村俊は控え、というのを各マスコミが大きく報道しておりますが、3ボランチっていうよりもイングランド戦での4-1-4-1っていうのが正解なんじゃないでしょうか。で、本田に関してはもとより攻撃においては一番期待できる人材だし、右サイドに張り付いているんじゃしょうがないわけで。
 だから、フォワードが本田とかいう視点で大騒ぎするスポーツ・マスコミもなんだかなぁ。実際には0トップぐらいの発想で、大胆にやってくれりゃいいです。

 ここ最近の試合で調子の良かった長谷部、大久保、阿部を積極的に起用して、いっこうに調子の上がらない中村俊と岡崎を落とすのはしかたのないこと。フランス大会の時だって、本番でのスタメンは予選時とは全然違っていたじゃないですか。
 私は少し期待度が上がってますけどね。

 期待度と言えば、菅直人新首相になって、いきなり支持率が60%に上がるっていうのも、いったいどうなのでしょうか?私には不思議に思えてしかたがない。日本人って、こんなにもイメージ的なもので左右されてしまうのか?
 私は基本的には、今の民主党(もしくは民主党を中心とする連立)が政権を最低4年は続けなくては意味がないと思ってはいますが、国の首相がコロコロ変わるという大事件を平気でやっておいて、次の日にはガラっと変わってしまう国民意識はまともなのか、と不安に感じます。
 とにかく鳩山・小沢の個人さえいなくなればいい、というのではあまりにも短絡過ぎやしないか。

 かくも日本人とは訳の分からん民族だったのか。実際の日本人が思うのだから、いったいどうなんだ、これは。
 たぶん、鳩山・小沢をネタに民主党政権を壊滅に追い込もうとしていた人々も、まんまと両者の辞任にまで追い込んだのに、逆に民主党復活の芽が強くなるとは思いもよらなかったのでは。

 結局のところ、敵が切腹するなり、島流しにされてしまえば、すべて禊ぎとなって、あとは神社か寺を建てて、拝んでおけば祟りにあわずに済む。そんな日本民族の底流を流れる意識が、ここでも垣間みれてしまうのは、考え過ぎか。

 さて、もう一つ。渋谷のHMVが閉店するという。CDが売れない時代が象徴する出来事。私もその片隅の一員である音楽業界の地殻変動は、予想以上のスピードで起きているのだった。
 だが、ミュージシャンとしては、ただただ音楽に真摯に向き合うだけだから、周りの状況がどんどん変化して行くとしか言いようがない。とは言え、経済としての音楽分野は実に深刻な時代だな。少なくとも20世紀の音楽産業は確実に終焉が近い。
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by harukko45 | 2010-06-11 00:27 | 日々のあれこれ

鳩山首相辞任

 昨夜の続きを楽しく書こうと思っていたら、突然の首相辞任発表で、少なからずショックを受け、やはり自分なりの考えを記しておきたい気になった。

 正直、私は怒っている。こんな形で一国の首相がわずか8ヶ月で辞めるなんて、その国に住む民として、実に情けない。
 テレビのワイドショウでの街頭インタビューでは「当然だ。」「これでスッキリする。」「辞めても何も変わらない」との声。スタジオや新聞では、評論家や政治記者達は自らの仕事が注目を浴びる事で何ともウキウキしているように見え、憶測や作り話ででっちあげた政局談義を恥ずかしげもなく語る。かくも、この国の知識人と言われる人々は「政局」とその「混乱」が大好きなだけで、「政策」や「国家観」、「理想」と「現実」を語ることはない。

 このような事態を招くことは、政治家だけの責任ではない。結局のところ、このような政治家達や政治体制を選び続け、彼らに任せきってきた国民の責任が一番重いことを知るべきだ。現民主党政権だけでなく、そもそも自民党政権時に政権交代を起こす動きも遅すぎた。私たち日本人は、戦後まだ一度も真っ当な「民主主義」を経験することなく、常に評論家気取りで外から勝手なことを言ってきただけであり、それでいて肝心の場面においては「政治不信」という決め言葉で逃げ、まるでニヒリスト気取りで「何も変わらない」「誰がやっても同じ」と言ってきたのだ。
 
 民主党にも腹が立つ。「鳩山では選挙に勝てない」とは何事か。自らが与党であるにもかかわらず、ここまでの政治に自分達には責任がないかのように、トップをすげ替えれば「クリーン」になるという発想が情けない。ならば、もっと前から活発な政策論議や政府批判、党幹部批判をし、自助努力するアピールを各議員がすれば良かったではないか。結局、早くも「与党ボケ」していた民主党議員は、選挙についても小沢氏におんぶにだっこ状態だったにちがいない。

 そして、昨年の衆院選前から大手マスコミ・検察を中心に繰り広げられた鳩山・小沢潰しの大キャンペーンは、本日ついに結実し、最大限の成果を生んだ。見事なものであり、日本のマスコミの異様なまでの執念にもおそれいった。だが、それが日本の将来にとってどう有意義なのかは全く理解できないし、それらを動かしてきた人々も説明することはないだろう。だいたい、マスコミが自ら責任を取ったり、説明検証を果たしたのをほとんど見たことがない。「小沢憎し」のみが全てか。

 私は小沢氏にまつわる「カネ」の問題はすでに無罪であり、かなり譲っても推定無罪状態なのだから、執拗に説明責任を求めるマスコミの姿勢は理解できない。にもかかわらず、常に刑事犯罪人的イメージを国民に植え付け続けたのは、どんな手段であろうとも「切腹」させたいだけとしか思えない。要はいくら説明しようが、辞任するまで延々と続くのだ。
 それはライブドア事件での堀江氏、もっと遡ればリクルート事件での江副氏らと同じ、出る杭は打ち、見せしめにし、血祭りにあげるという、この国の極めて情緒的な行動指向と判断。異常なまでの潔癖主義は、平等という美名に隠れた嫉妬心が根底にあるとしか言いようがない。
 
 民主主義というのは、そもそも実に不合理で時間のかかるシステムだ。いろいろな人々の主義主張を全てオープンで議論し、それぞれが妥協して一つの政策を作り上げて行く。我々はその過程をじっくりと見守って行かなくてはならない。それには忍耐が求められるのだ。改革はそんなに急速には進まない。自分達がその対象になることを想像すれば良い。誰でも自分に不利になる事には抵抗するだろう。では、反対派を追放し抹殺すればすむのか。それがいいなら、独裁者に任せればよい。
 民主主義はそうではない。最後は全てが満足ではないが、何とか納得できる形で妥協せねばならない。だからこその公共だ。

 アメリカではケネディ大統領が1961年の就任演説で「国があなたのために何をしてくれるか、ではなく、あなたが国のために何ができるか」と語ったが、それこそが民主主義の根本であり、民主主義こそ最も厳しい自己責任を求めるものに違いない。それをしっかり自覚しているアメリカ国民に比べ、我々日本人は2010年現在でも、まだまだ何もわかっていないヒヨっ子だ。ずっと、国がお上がどうにかしてくれると甘えてきたのだから。

 ここで、鳩山首相にはお礼を言いたい。彼が普天間基地移設問題で迷走してくれたおかげで、我々は日本人がいかに国防に関して無知で、それはアメリカ軍にお任せであり、そして沖縄差別ともいうべき状態であったことをまざまざと思い知らされたからだ。それにより、我々日本人は世界に稀に見るほど「おめでたい」平和ボケだったことも知る。恥ずかしくて、「平和憲法を持つ日本」などと世界に向けて言えない。

 私は今日、首相が語った「私は、つまるところ、日本の平和、日本人自身で作り上げていくときをいつかは求めなければならないと思っている。アメリカに依存し続ける安全保障、これから50年、100年続けて良いとは思いません。そこのところも是非、みなさん、ご理解いただいて、だから鳩山がなんとしても少しでも県外にと思ってきた、その思い。ご理解を願えればと思っています。その中に私は、今回の普天間の本質が宿っている、そのように思っています。」ということをなぜ、就任当初から発言してくれなかったのかが悔やまれる。

 普天間問題は、基地をどこに移すかどうかという各論に終始するのでなく、そもそも日米安保は何か、今必要か、必要ならどのくらいの時期までなのか、日本は自らの力で防衛すべきではないのか、という根本議論を国民レベルで巻き起こして欲しかった。本当ならマスコミも、「政治とカネ」問題をスキャンダラスに報じるのを少し控え、この国の安全保障はどうあるべきか、という大問題を果敢に論じるべきだった。そうやって、国民、マスコミ、政治家が強い問題意識を持っていれば、現在のような事態にまでこじれるようなことはなかったのではないか。

 いや、あえて言えば、沖縄以外の日本の各地域が皆基地受け入れ反対であるのが民意であるなら、それはゆくゆくは、アメリカ軍の全面撤退を求めることにつながり、そのかわり自衛隊を重武装化した軍隊として位置づけることにつながっていくと思う。
 そういった部分まで、我々は見えているのか?米軍基地を産廃処理場と同じようにしか考えられていないのではないか。だから、ただただ反対反対しか言わない。

 私は社民党にも腹が立つ。福島党首は「私を切ることは沖縄を切る事と同じ」などと発言して、今日の首相辞任が「それ見た事か」のように語るが、この党には与党、内閣で共に政権を担う意識が全くなかったことが明白になった。まるで沖縄の代弁者のごとき言い回しは、自らの生き残りのために沖縄を利用している。彼らこそ無責任極まりない。
 小沢一郎は細川政権後と同じく、再び社民党(当時は社会党)の大人げない理性を欠くやり口に、すっかりやられてしまった。絶対にこの人たちと組んでは駄目なのだ。そもそも、アメリカ軍基地の国外移設と非武装中立が両立する主張を持つ人々に、国を任せるような力を与えてはならなかったのだ。
 ヨーロッパの社民主義を前提とするならば、増税と自主防衛は当たり前の政策だろう。そのどちらも否定する日本の社民党は、もっとも危険であり、早々に退場してもらいたい。

 さて、とは言え、このしょうもない状況を作り出したのは国民自らであることを、もう一度自覚したい。だからこそ、その収拾には我々も相当な覚悟と忍耐が必要となった。決してやってはならないことは、無関心になること。そして、政治をスキャンダル化ワイドショウ化して、世論誘導するマスコミに引っ掛からないことだ。
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by harukko45 | 2010-06-02 17:05 | 日々のあれこれ

テレビ・新聞の未来

 去る3月22日の22時からNHKで放送された『放送記念日特集 激震 マスメディア ~テレビ・新聞の未来~』という番組は偶然見つけて、最後まで見たのだが、今頃になって、その裏でUstreamがまさしく裏番組をやっていた事を知り、そちらも見ていればよかったと、つくづく残念に思っている。
 何と、その裏番組には上杉隆、堀江貴文、津田大介、山本一郎、小飼弾といったネット界の有名論客達がそろっていたとのこと。かなり、酔っぱらい状態のグタグタな流れだったようだが、NHKの番組終了後はNHKの方に出演していたdwangoの川上社長が加わり、彼の「ニコニコ生中継」も導入されて、なかなか活発な議論の場になったとのこと。

 マス・メディア的にはその場で堀江氏が語った「近鉄買収は楽天経由だった」ということのみ、大きく伝えられているが、実際には現在のマスコミへの批判が相当量あったと想像できるので、他の重要な部分は無視されて当然なのだろう。

 で、この時の裏は見れなかったが、表を見た視聴者としては、そこに出席していた内山斉氏(読売新聞社長/日本新聞協会会長)、広瀬道貞氏(テレビ朝日顧問/日本民間放送連盟会長)、今井義典氏(NHK副会長)による「表」代表と、川上量生氏(ドワンゴ会長)、佐々木俊尚氏(ITジャーナリスト)、遠藤薫氏(学習院大学教授)よる「裏」代表による議論が全く噛み合ないのが、すさまじく面白く、この状況はすでにアメリカで起きている新聞社の倒産や、メジャー放送局のダウンサイジングの現実が日本にもまもなくやってくることを確信させるものだった。

 いちいち一つ一つ細かいことはもう忘れてしまったが、とにかく一番強く印象に残ったのは広瀬氏や今井氏がさかんに「新聞・テレビとネットの融合」を語りながら、既存のマス・メディアの報道はプロによる「きちんとした」「確かな」「信頼できる」ものである、と力説した後に、川上氏が「ネットとマス・メディアとは全く別の世界なのだ」とサラっと述べたことだった。
 川上氏はその人柄からか、意見を声高に言ったり、相手を威圧するようなことがないので、まさに「サラっと」主張されていたが、見ているものからすると、「それが真実だ!」と強く共感するものだった。

 佐々木氏もかなり具体的にマス・メディアの危機とネットの隆盛を語っていたと思うが、学者である遠藤氏は結局のところ双方の妥協点的な部分に落ち着かせようとする指向が見えて、中途半端な話を繰り返していた印象だった。

 ただ、それでも圧倒的に「裏」側の意見の方が説得力とリアリティがあり、「表」側の3人の考えには先進性も柔軟性も現在から未来への危機感、展望、対策が全く聞かれず、全てがただただ「言い訳」と「予定調和」にしか見えなかった。
 実を言うと、私などはどちらかと言えば旧世代に属する年代なのだが、それでも新聞を家でとらなくなってすでに10数年たつし、テレビの特に報道における信用性については、かなり疑念の思いをずっと感じていた。

 だが、自分一人で疑ったり、おかしいと思っていても、それまではほとんどの人がマスメディアから情報を得ていたし、それが正義・真実に見えていた時代を生きてきたために、いっこうに検証されることはなかった。
 が現在、このネットの隆盛によって、これまで見えなかった部分が普通の人々にも伝わるようになり、自分達の意見や疑問さえも公開で語れるようになった。

 それにより、マスコミというものが、いかにオープンでなかったか、彼らががいかに情報にフィルターをかけて発信していたかが、じょじょに分かり始めてきた訳だ。

 いや、新聞社やテレビ局が自分達で情報をいじくるのは、別に悪くはない。ただし、そのかわり新聞やテレビもネットに関わりを持ちたいのなら、彼らもただのコンテンツの一つでしかないことを理解すべきで、これまでのように「正しい情報、真実を伝えているのは我々だけ」みたいな傲慢な姿勢をやめろ、と言いたい。
 自分達の考えを発信したいなら、少なくともアメリカのように選挙前にどの政党やどの候補者のどの政策を支持するのかといった明解な主義主張を自らも提示すべきだ。日本のマスコミの言う「中立性」など、絶対に信じられないし、欺瞞に満ちている。

 テレビに登場する政治評論家や記者達が語っているのは「政局」だけだ。彼らは「政局評論家」「政局記者」と名前を改めて欲しい。彼らが語るのはスキャンダルだけで、我々がちゃんと知りたい政策論議をきちっとするのをほとんど見たことがない。

 とは言え、もう遅い。マスコミ、マスメディアはじょじょに衰退する。少なくとも私にはあまり必要ない。今後、マスコミなるものが成り立つのは、凛とたたずむ高潔なる保守としての立場のみではないか。革新や先鋭性はネットが引き受け、横丁のご意見番、物知りのご隠居としての重厚なる存在感を示してくれるのなら、それはそれで敬意を持って接したいが。

 
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by harukko45 | 2010-04-01 16:47 | 日々のあれこれ

 「人間を幸福にしない日本というシステム」の著者として有名である、オランダ人ジャーナリストでアムステルダム大学教授のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏が、中央公論に寄稿した論文を読んだ。
 「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」がタイトルで、官僚、検察、メディアが、新政権を潰そうとしている動きに対し、重大な懸念を表明している内容だ。さすがに長く日本に関わり、官僚批判をしてきた人であり、単なる西欧人の「上から目線」での説教ではなく、深い洞察力を感じさせて実に興味深かった。

 私は昨年夏の政権交代を、日本歴史上初めて起きた民主革命だと思っているが、それが全くの無血状態で行われたが故に、我々日本人はその後この大快挙について、かなり軽く評価しているように思う。そして、民主党政権が誕生してすぐにわき起こったメディアと検察によるバッシングと、それに操作されつつある世論によって、今ではその革命も誤りであったかの空気が作られようとしている。

 私を含め日本人は全員、本当の民主主義を未だ経験していないし、それを勝ち取るために激しい戦いをしてこなかったがために、その偉大さや尊さをよく理解できず、ようやくその第一歩に立ったというのに、早1年も経たないうちに臆病にも再びかつての官僚主義による政治体制に戻ろうとする危険な状態にある。
 
 私はこのところのいわゆる「金と政治」の問題をはじめとする民主党がらみのスキャンダル報道にうんざりし、それを丸呑みして信じ込む多くの人々の意見にも違和感を感じ、すっかり疲れてしまった。
 なので、大部分の世論がそんなに言うのなら、もはや小沢幹事長もさっさと辞任し、夏の参院選挙では民主が敗退し、またまた衆参逆転国会にでもあって、日本は再び政治停止状態にでもなればいいと、やけっぱちな気分にもなりかけていた。
 もし、そんなことになったら、日本は心底世界中の笑い者となるだろうし、国民は後々大きな代償を払わされるであろうと思うが、それも止む無し。結局、血で血を洗うように民主化を必死に勝ち取ってきた欧米の人々と比べれば、我々日本人の民度は低いに違いないのだから。

 だが今日、永田町異聞にて、先述のウォルフレン氏の論文の要約に出会い、そこから原文(井上実訳)も読む機会を得て、私がここ数ヶ月感じていながら、何とも心にわだかまっていたことへの大きな解答をもらったような気持ちになった。
 是非、広く多くの人にこの論文を読んでいただきたいし、考えていただきたい。私には今が日本にとって大変重大な時期であると感じているし、この時の決断を国民一人一人が誤ったなら、日本が成熟した民主国家になることは出来ないという危機感を持っている。

 大変な長文ではあるが、是非読んで欲しいので、リンクさせていただく。
日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン
同上(その2)
同上(その3)
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by harukko45 | 2010-03-25 00:30 | 日々のあれこれ

結局、小沢氏不起訴

 今年に入ってからの大騒ぎのあげく、結局は小沢民主党幹事長を起訴できない検察という組織は、いったい何だ?
 要は、かなりの「無理筋」だったってことでしょう。

 マスコミを巻き込んで(マスコミも調子に乗って)、大「小沢つぶし」キャンペーンを展開したものの、大失敗という結果を生み出した検察当局とマスコミ各社は、国民に対してちゃんとした説明責任を果たしてもらいたいものだ。
 日本という国家にとって、大きな変革への大事なこの時期に、検察とマスコミのミス・リードによって、我々国民に生まれた「不信感」「倦怠感」「虚無感」が、日本国の活力をかなり喪失させたであろうことの責任は実に大きい。
 この期に及んでも「嫌疑なしではなく、嫌疑不十分ではまだ疑惑は残る」と言い張る人も登場するが、一応民主国家である日本では「推定無罪」の原則を守るべきではないのか。白か黒で判断し、灰色は基本的にはなく、それは白なのだ。

 少なくともマスコミ各社は、今後も言論機関としての立場であり続けようと思うなら、今回のバカ騒ぎについて、ちゃんとした総括をすべきだ。

 石川議員ら3人の元秘書は検察の威信を守るために、何としても起訴しなければかっこがつかないのだろう。だが、これだって裁判になればどのように判断されるかわかったものではない。

 しかし一方で、これにより全てが終わったわけではないという見方もある。検察が駄目なら今度は国税庁が、というのが一つのシナリオとしてあるらしい。それにより、再びメディア・スクラム的現象で世の中をかく乱させる事態が起きるやも知れない。何としても、小沢一郎という人物を官僚組織は排除せねばならないのか。かなりの強引さでも、自らの権力を誇示・維持をするためにそういった組織が動いているのだとしたら、何とも恐ろしいことだ。
 その手の裏解説は永田町異聞に詳しいので、是非ご覧になっていただきたい。

 さて、とは言え、これほど大騒ぎになったことだし、民主党はこの期に乗じて、企業団体献金の全面禁止という政治改革と、取調べの全面可視化や検事総長の民間登用などの司法改革を一気に断行すべきだ。そういったことで、変革への道筋をはっきりと我々に示してほしい。
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by harukko45 | 2010-02-04 19:24 | 日々のあれこれ

 著名なジャーナリストである江川紹子さんが、今回の小沢報道をめぐる件で、実にスジの通った意見をご自身のサイトで述べられているの見つけた(1/19付のアップ)。一連のマスコミ報道と検察の捜査に、ある種の異様さを感じている方、興味のある方は是非、ご覧になっていただきたい。

「東京地検特捜部の判断は常に正しい、のか」


 おー、そういえばその同じ1月19日にあった、原口総務大臣の「クロスオーナーシップ問題」を検証をするという発言は、日本のマスコミが真に価値あるメディアになるためのきっかけになる重大な問題提起だったと思う。
 22日の原口大臣の記者会見も実に興味深いので、リンクさせていただく。「Twitterは公式の発言なんですか?」――原口総務相記者会見 (1/4)

 そしてもう一つ、自民党・河野太郎議員のブログにも検察・マスコミへの批判が書かれている。「副大臣がやり残したこと」
 正直、自民党というのは本当に愚かで、総裁を河野太郎にするのが最善の策だったのに、自ら葬った。これで当分、自民の再生は難しいと思った。一方で、河野氏らの自民党若手は、渡辺喜美氏ら「みんなの党」あたりと連携するなり、新党結成に動くなりのダイナミックな行動はできないものなのか。
 彼のような人物が10年早いと押さえ込まれてしまうのでは、政権交代可能な2大政党制も第3の道も日本では見えなくなる。

 
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by harukko45 | 2010-01-26 01:16 | 日々のあれこれ

おやじミュージシャン和田春彦の日記でごじゃる
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