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 「ドン・ジョバンニ」はモーツァルトの最高傑作とも言われるオペラ。私は「フィガロの結婚」とどちらを上位に置くか、いつも迷う。と同時に、両方とも大好きで一生つきあうに違いない永遠の恋人と思っている。「フィガロ」は考えるだけで楽しい気分になり、「ドン・ジョバンニ」は聴くたびに深みを感じる。
 
 いろいろなCDや映像を聴き比べ(見比べ)て、自分のお気に入りを探すわけだが、「ドン・ジョバンニ」の場合、CDではブルーノ・ワルター先生のメトロポリタン・オペラでの古いライブ録音に行き着いてしまった。正直これを聴くと他の指揮者はただのメトロノームに思える。それほどまでに曲のえぐり方が凄いし、指揮の凄まじさに圧倒されて、ライブゆえの乱れも歌手の出来も気にならない。映像ではカラヤン指揮のザルツブルグ音楽祭でのライブかムーティ指揮のミラノ・スカラ座のを楽しんでいる。指揮者の凄さはワルター先生にはともに及ばないが、好きな歌手が出ているし、演奏・演出・出演者のバランスがとれているのだ。

 さて、昨夜は小澤征爾氏の指揮で、出演者にはドンナ・アンナをエディッタ・グルベローヴァが演じるという破格の幸運にも巡り会えて、大いなる期待と不安を胸にStaatsoperへ恋人に会いに出かけたのである。

 序曲は有名な地獄落ちの音楽から始まって、まもなく陽気な音楽にかわって盛り上がるのだが、ここらあたりで本日のシェフの特徴がわかってくる。ワルター先生は、非常に厳しい導入部から陽気なパートに移ると速いテンポでまったく気分を緩めること無く、さらにアッチェルをかけるように一気にたたみ込んで行く。フルトヴェングラーは逆にものすごく遅くてベートーヴェンの大シンフォニーのごとく分厚い音でノシノシと進む。いずれにしろ過去の巨匠たちはこのオペラの裏側をえぐりだそうとするのだが、小澤氏は、そんなものは何もないように進めた。譜面通りと言えばその通りだが、やけにきちきちと演奏されるので、何とも先が思いやられる。

 序曲の最後からそのまま1幕目の導入の音楽につながっていき、ドンナ・アンナをものにしようとして彼女ともつれ合うドン・ジョバンニは、アンナの父の騎士団長に見つかり、そのまま決闘し、騎士団長を殺してしまう。婚約者のドン・オッタービオをつれてきたアンナは父の遺骸を見て悲嘆にくれ、オッタービオに復讐を誓わせる。

 ここの音楽を幼いチャイコフスキーはとても恐ろしがったという。もう何度も聴いているから恐いことはないものの、緊張感を持続させてアンサンブルをきびしく決めてくれれば、聴き手の私はワクワクしっぱなしの大好きなオープニングだ。しかし、小澤氏は強姦未遂も殺人も復讐の誓いも何も関係なしに淡々とこなした。感情移入しようとするグルベローヴァをはじめとする歌手たちは、オケよりも前のめりになっていき、小澤氏のタクトがもたもたと後からついていっているように聴こえた。最後には、アンナとオッタービオとオーケストラはそれぞれ歩み寄ることもなく、我が道を行くになってしまった。

 ジョバンニを追ってやってきたドンナ・エルヴィーラに向かって従僕のレポレッロが主人の犯した女のリストを読み上げる「カタログの歌」は、前半の得意げに歌う楽しい部分から、後半テンポをおとして彼女に同情的になり、哀愁をおびたムードになるのだが、小澤氏はあまりにもテンポを遅くし過ぎ、最後にもっと遅くしたので止まってしまいそうになり、どっこいしょという感じで終わった。この日のレポレッロは中国系と思われる若手のバス歌手だったが、残念ながら技量不足は否めず、オケのゆるみをカバーするほどの力はなかった。カラヤンのビデオでのフェルッチョ・フルラネットの豊かな感情のこもった名唱を思い出してしまう。

 その後も小澤氏と歌手たちとの折り合いは悪く、一向に落ち着いて音楽に集中できない。だんだん気づいてくるのは、小澤氏のノリはモーツァルトのそれとは違うのではないかということだ。モーツァルトの音楽には絶対に愉悦感あふれるノリの良さが必要だと思っているが、そのノリ方が根本的に違うのではないだろうか。我々がポップスの世界でニューオリンズのノリだ、ブラジルやキューバのノリが云々と言って、自分たちのノリ方との違いを語るのと同じ問題を感じ始めた。確かに同じ譜面で、同じ音符なのだが、小澤氏から引き出される音は一つ一つが律儀すぎて、長さも強さも同じように聴こえる。それは私がいろいろなCDなどで聴きなじんでいるものとは違うノリだということだ。その音に彼の何らかの強い意志がこめられているのなら、新鮮な響きとして歓迎するが、そこまでのものはあまり感じられない。

 結局、1幕のフィナーレはモーツァルトの最高の音楽の一つにもかかわらず、ちぐはぐなパフォーマンスは改善されず、感動など何処へやら、この前の「魔笛」のように、「ドン・ジョバンニ」よお前もか! とひどく落胆した。私だけでなく全体に聴衆も盛り上がっておらず、冷ややかな拍手で1幕は終了した。

 さあ、ここまでひどい姿の愛しの恋人の今後は、どうせならもっととんでもないことになって、スキャンダルにでもなったらどうかなどと、ヤケッパチな気分でかなり悲観的に考えざるを得なかった。せっかくのウィーンもさんざんな夜になったもんだと思った。

 ところが、2幕目に入って、がらっと雰囲気がかわった。我々の現場だったら、楽屋で緊急ミーティングして、それぞれの部分を確認しあったり気合いを入れ直したりといったところだが、まさかStaatsoperでそんなことはないだろう。(意外とあったりして!!)とにかく、2幕での小澤氏は別人のようにすべてを掌握していた。また、彼にとって幸運なのは、1幕目が各登場人物の人間性を浮き彫りにしていくために多彩な表情が必要なのに比べて、2幕目がずっと夜の暗闇のシーンであり、音楽は主人公の地獄落ちに向かってジワジワと集約していくように書かれていることだった。

 小澤氏は2幕目最初からしばらく室内楽のような静けさと落ち着きでじっくりと聴かせてくれた。これは大変効果的で、本当にうっとりさせられた。そして、ドンナ・アンナの長大なアリアにおいて、グルベローヴァが会場中を熱狂に包み込む素晴らしい歌唱を披露したことで、この後の成功は約束されたのだった。彼女への賞賛の拍手は全く鳴り止まず、そでに引っ込んでいた彼女はもう一度舞台に顔を出さなければならなかった。我々はスタンディングで迎えた。

 もう一つ、とんでもなく素晴らしかったのが、地獄落ち前のジョバンニ邸での晩餐シーン。ここでは、楽しげに楽士を入れてジョバンニが食事するのだが、この舞台上で演奏される室内楽の抜群のうまさったら!! ウィーン・フィルの楽団員が衣装を着て演奏し、軽く演技もするのだが、この間オケピットからは彼らを冷やかしたりはやし立てたり、とくにクラリネットが圧巻にうまく、全員のキビキビしたノリも楽しくってたまらなかった。ここでは小澤氏は振らずに彼らにまかされているのだが、そうそう、これだよ、これ!このノリだよってうれしくなってしまった。

 そして、楽しい晩餐中にエルヴィーラが来て、ジョバンニに改悛をすすめるが彼は拒否、その直後、殺したはずの騎士団長が墓場の石像となって現れ、再び改悛を迫る。が、ジョバンニはあくまで拒否、石像は彼の手を握って地獄に連れて行く。このクライマックスを最大限に盛り上げるために、それまでぐっと抑えてきた効果が見事に生かされた。静謐に進めることで、聴衆は息をひそめるように聴き入り、音楽に集中していったのだった。それが、最後の地獄落ちを強烈に印象づけたのだと思う。この小澤氏の指揮ぶりはお見事というほかないし、敬服した。

 まさに「終わりよければすべて良し」とあいなって、カーテンコールも何度もつづけられ、不安な夜は幸福な夜に変身したのだった。それにしても、モーツァルトの無駄がなく、空間を生かした洗練された音楽、美しさの中に毒を含んだ深みのある内容、あらゆることを音楽で表現してしまうその才能にはただただひれ伏すのみだ。彼は「ドン・ジョバンニ」を33歳で書いた。死はもう2年後だった。私は200年以上前に書かれた彼の音楽にこれからも夢中になりっぱなしだろう。
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by harukko45 | 2005-01-14 00:00 | 旅行

 1月12日、ワーグナーの「パルシファル」を観た。指揮がサー・サイモン・ラトルだ。ラトルは今やクラシック界一の人気を誇る実力者で、ベルリン・フィルの常任指揮者だ。ウィーンとも一昨年(だったかな?)ベートーベンのシンフォニーをレコーディングしてたりして縁も深いようだが、Staatsoperは今回が初登場ということで、要注目だった。

 正直、私はワーグナーの音楽が嫌いではないが、ワグネリアン(ワーグナー信奉者)の一人というほどでもない。よって、ラトルが振ってなければ「パルシファル」を観ることはなかった。とにかく、17時開演、中に20分程の休憩を2回はさんで、終演は22時30分。全曲4時間半以上もの大作だからね。やる方はかなりの重労働だろうが、聴く側にもそれなりの「覚悟」が必要なのだった。

 モーツァルトやヴェルディ、プッチーニらの作品と違って、ワーグナーには「唄」や「曲」、「アリア」だ「アンサンブル」だというものはない。延々と彼の傲慢極まりない、巨大で分厚くて陰湿で威圧的なオーケストラをバックに、歌手達が彼自身が書いた回りくどくて説明が多くて、よく言えば「文学」的なテキストをこれまた延々と歌いながら語り続けるのだった。よって、普通に音楽を聴くようにワーグナーを聴いたら、確実に拷問に感じてしまう。(と思う。)私は、彼の音楽を聴く時は、とにかく「ボケーっと」して聴くようにしている。大筋のストーリーと登場人物さえ把握していれば、細かい台詞を気にしないことにする。だいたい、ご挨拶とケーキや食事の注文ぐらいしか出来ないドイツ語能力では劇の内容を深く理解することなど不可能だもんね。

 イメージとしては大きな音の海に仰向けで浮いている感じで、あとはどこにでも流れて行けというところか。そうこうしているうちに、なんともはや妙な気分になってくる。それが、ワーグナーの毒にやられる瞬間だ。彼の毒が効き始めると、ボケーっとしてたのが、ますますボーっとして、フワフワしてヘロヘロになるのだ。これがはまるのである。かなりの中毒性があるので、一度病みつきになるとしばらく抜けなくなる。今日も明日もワーグナーが聴きたくなる。それ以外の音楽はぬるく感じてしまうのだ。

 さて「パルシファル」だ。ワーグナーはどれも管弦楽が大変素晴らしいし、音響効果もよく考えられてて、いつもCDより実演で聴くほうがその舞台効果の凄さに圧倒されるのだが、今回特に1幕目にはものすごく感動した。ラトルの指揮は文句のつけようもなく、立派だった。ゆったりとしたテンポをしっかりとキープしたまま堂々と進みながら、ピアノでの繊細な表情から、ここぞという時はオケを鳴らしまくるそのメリハリの良さのおかげで、1時間45分間まったく飽きることがなかった。

 それに、各パートのバランスの良さから、色々な楽器が明解に聴こえてきていろいろと気づかされた。例えばバスクラリネットがこんなに効果的に使われているのを初めて知ったし、それ以外の木管パートもこれほど魅力的な内容だったとは思いもよらなかった。そしてまた、ウィーンフィルのクラリネットやフルートはいい音だなぁとまたまた関心してうっとりしてしまったのだった。でも、ホルンはけっこうミスってたなぁ。ウィーンのホルンは独自の古い楽器を使っていて(他の楽器もみんなウィーンフィルだけの楽器)、奏法がむずかしいらしい(その分音色は独特で繊細だ)から、ある程度しかたがないか。これに関してはファンもよく知ってるから大目にみているのかも?

 そして、1幕後半の聖杯城での晩餐のシーンの音楽には、背筋がぞっとするような興奮を憶えた。オーケストラはオケピットだけでなく舞台裏にもいて、場面場面で効果的に使われるが、パルシファルとグルマネンツが城に向かって「時間を空間に変えて」進み、同時に騎士たちが勢揃いするときに鳴らされるベル(?)のとんでもなく幻想的なサウンドの凄さ(どうやったらあのように響くのだろう!)、男性・女性・子供による合唱もいろいろな所から聴こえてきて、生のサラウンドにもまいった。そして、それらに応えるストリングスのトレモロをかけた高音の美しいこと! すべてをかき消すかのような金管と打楽器の強音の刺激に心臓はバクバクしてしまった。さすがに現代最高のカリスマ、ラトルのオーラあふれる指揮に脱帽である。

 あまりにも素晴らしかったので、中央席のお客が拍手したのに思わずつられて拍手してしまった。そうしたら、となりの老婦人にきつく怒られてしまった。そうそう、この手の宗教色の濃い曲に拍手してはいけないのだった。例えば教会で音楽が演奏されて、それを聴いている時などはまさにそれにあたり、曲が終わっても拍手してはいけない。確かワーグナーがこの「パルシファル」はミサのような「聖なる」体験を実現するために、教会と同じようにお客に拍手をしないよう求めていたことをすっかり忘れていた。ご婦人にはちゃんと謝ったが、そうとうお怒りだった。でもなぁ、このオバアさんも音楽がピアニッシモの時もおかまいなしに、席を立って舞台をのぞこうとして、そのたびに椅子がギーギーいってたんだけどね。

 さて、そこまでこだわる第1幕は「聖杯」「聖槍」「聖杯守護の騎士団」「ともに悩み、悟りゆく清らかな愚か者」「予言」「キリストの血と肉(ワインとパン)」の「聖」なるものに溢れた荘厳な舞台だが、そのあとの2幕目は一転キャバレーか売春宿かと思うようなシーンになる。魔法使いグリングゾールは魔法によって城を築き、そこに魔性の花の女たちを集め、その色香によって聖なる騎士たちをたぶらかし堕落させていた。だいたい、聖杯城の王アモルフォタスもまんまとクンドリーの色香に負けて、(キリストの脇腹を貫いた)聖槍をクリングゾールに奪われて、おまけにそれで傷を負わされたのだ。その傷はどうしても閉じること無く、その苦しみに耐えかねて「死にたい死にたい」と言っているのだった。

 そして、その魔法の城にやってくる「清らかなる愚か者」パルシファルを、真っ赤な下着姿の総勢20人以上の魔性の花の女たちはあの手この手で誘惑するのだ。いやーぁ、なかなかいいものを見せてもらいました、と言いたいところだが、残念ながらそれほどでもなかったかな。それに、ここの場面の音楽はものすごく官能的で、これぞワーグナー、自分の性欲の赴くまま人様の奥方と不倫はする(ヴェーゼドンク夫人)は、弟子の女房を亭主の居ぬ間にはらませてしまう(コジマ)猥雑なワーグナーの真骨頂だと思って楽しみにしていたのだが、意外と普通だったのだ。ラトルは非常に明解に音楽を響かせるので、細部まで見通しのいいサウンドなのだが、それが逆に妖しげなムードをうすめてしまい、官能性や陶酔感といったものが少なくなってしまうようだ。だから、あんまりエッチな気分にならなかったのだ。(私は「聴いているうちにいつの間にか股間がモッコリ、というのがワーグナーの正しい聴き方である。」という玉木正之さんの意見に強く賛同します!)

 その後はパルシファルとクンドリーのものすごく長い問答がある。ここはついに拷問の目にあった。歌手がすごくうまくなくてはなかなかもたないよ。今回はテノールが力量不足で、ちっとも英雄ぽくないので、音楽に入り込むことができなかった。ここらへんはワーグナー先生、なんとかなりませんでしょうか。台本見ても、もうちょっと簡潔にしても十分じゃないかと思うのですが。といっても今更音楽を書き直すわけにもいかないしねぇ。耐えるしかありませんか。

 3幕目は聖槍を取り戻したパルシファルが聖杯城に戻り、アモルフォタスの傷を直し、聖杯を開張して万々歳となるわけだが、ここでの音楽は1幕目での感動再び、荘厳の極みとも言うべきオーケストラサウンドで締めくくられるというわけであった。しかし、あまり陶酔感を味わえなかった私は少々欲求不満のまま突入して、なんだか中途半端で果てたような気分だった。とにかく長い長い曲で、頭はウニになったよ。

 とは言え、全体的にはサイモン・ラトルの指揮ぶりはやはり素晴らしかったと思うし、彼こそ現存する数少ない巨匠であることは間違いない。特に1幕は本当に完璧だった。ただし、全体の陶酔感や音楽の中に沈み込んで行くような感覚は私の持っているCD(クナッパーツブッシュ指揮バイロイト響)の方があったというのが結論だ。私としてはこの1幕を聴けただけでも満足したし、マエストロ・ラトルに最大級の敬意を表したいと思う。
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by harukko45 | 2005-01-13 00:00 | 旅行

 昨日から今日にかけてトラブルが続いた。

 その1/ 昨日(1月9日)からホテルをかわった。ここは旅行社に頼らず、自力でインターネットから予約していたのだが、何とダブルブッキングになっていて、一つ余分な予約をキャンセルするのに規定の48時間前をすぎていたのでペナルティを要求された。

 さんざんごねまくり、相手のコンピューターシステムの不備を繰り返し訴えたが、こちらにも慎重に確認しなかった落ち度があるのでやむなく承諾した。単なるコンピューターのエラーに違いないが、もう去年の11月にしたことなので、相手をねじ伏せる決定的な証拠がなかった。ま、それほどの金額でもなかったから、今回は妥協した(1日飯抜きお茶抜きケーキ抜きにしよう、ちきしょう)。しかし、こういうことはやはり気分が悪い。

 その2/ 手持ちのパソコンで、インターネットにつなごうとしたら、なかなかうまくいかず、アナログ回線の部屋からISDN回線の整備された部屋にかわったり、そのルーターを借りたり、それにフロントのネエチャンがこの手のことがよくわからず(私は女だからよくわからないときた!)だったりで、すったもんだしたあげく、数時間かかって結局ダイヤルアップでコネクト成功とあいなった。ほんと疲れた。

 その3/ ウィーンのコーヒーは実にうまくて、代表的なメーカーは「Julius Meinl」で日本で買うとかなりお高いが、スーパーで先週セールをやっていて普通でも安いところが、かなりのお買い得。大量に買って帰ろうと企てていたが、なんと週がかわったらセールが終わってしまった。なんというタイミングの悪さ。

 その4/ ドイツの有名な調理器具メーカーWMFの店もセールで大安売りだったのだが、狙っていた立方体型のおろし金(4面で別のスライスが可能の便利屋君)がここに来て売り切れ。見つけた時にすぐ買うべきじゃないか!

 さて、この程度なら「トラベルとトラブルは1字違い」と笑い飛ばせることだし、多少のトラブルを逆に楽しんでこそ旅はより印象的になる。が、しかし次の2つのことはそれどこではない。

 こちらのニュース(ケーブルテレビではドイツ、フランス、イタリア、それにMTVやCNNなどのアメリカ系TVが見られる。)では連日スマトラ沖地震・津波の被害について放送しているが、ドイツのクルーが撮った映像には海岸ぞいに浮かぶたくさんの遺体が映し出されていて、あまりにショッキングだった。その後、自分の家族に必死に人工呼吸をほどこしているインド系と思える人や、そのそばで泣き叫んでいる人。救援物資に群がる人々や呆然とただただ無気力に見守る人など、言葉もない。ますます自分の無力さとノー天気さにあきれてくる。

 そして、自宅の留守番電話に私の小学校時代の同級生が突然死んだとの伝言が入っていた。

 私は東京の下町、根津で生まれて中学1年までそこにいたが、亡くなった彼とは、小学校・中学校と一緒でずっと親しかった。とくに小学5年あたりから、グループサウンズの影響を受けてエレキ・バンドをやっていた仲間だった。私はオルガンで、彼はドラムだ。我々のバンドはその頃エレキ・インストのバンドで「寺内タケシとブルージーンズ」と人気を二分していた「井上宗孝とシャープファイブ」をコピーしていて、よく彼らが出る「ジャズ喫茶」(今のライブハウス)に行った。シャープファイブの皆さんも子供が来てるのをおもしろがって、ステージに上げてくれて演奏させてくれたりしたのだ。

 私にとってその経験がなければ、今のようにプロのミュージシャンになることはなかったろう。あの時、私はこれがやりたいと決心してしまった。それだけインパクトのある経験をともにした仲間は当然特別な存在だ。その時の一人が亡くなった。まだ47だ。何で? ショックであり、怒りをおぼえる。そして、日本から遠くはなれたウィーンにいることを不安に思えてきたし、後悔しはじめた。ひとまず根津の仲間に電話してよろしくお願いするだけしかできない自分をますます情けなく思う。

 最後に、再びドジが判明した。先週まで泊まっていたホテルにコンピューターにつなげていたスピーカーを忘れたのだ。今頃気づいて、この海外でちゃんと残っていると期待しても無駄だろう。がしかし、とりあえず駄目元で、ホテルに行ってみた。フロントの女性はチェックアウトした時の人で、私を憶えていた。忘れ物をしたことを伝えると、係に電話して探し出してきてくれた。私はちゃんととっておいてくれたことに何度も感謝の言葉を告げ、ホテルを出た。少し救われた気になった。本当にありがとう。
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by harukko45 | 2005-01-10 00:00 | 旅行

 ロッシーニの「セビリアの理髪師」を観た。一昨日と同じStaatsoperでだが、席の値段は10分の1の天井桟敷の右側、舞台の半分は見えない。が、前にも書いたように、かえって音が良かったりするのだ。オーケストラの音がオケピットから真上に向かってくるからだろうか。ただし、舞台の全容は見えないので、ある程度ストーリーを把握していないとチンプンカンプンになってしまう。今はDVDなどで自宅で予習できるから助かるのである。

 ところで、ロッシーニという人はイタリアの作曲家でモーツァルトの死後、ヨーロッパのオペラ界の人気を独占した人で、その当時あまりの人気にモーツァルトのオペラの上演回数が減ったのだそうだ。ところが、人気絶頂だった37歳で突然引退し、その後は美食家として余生を過ごしたという。料理のレシピ本も残していて、ロッシーニ風ステーキ(牛ヒレステーキの上にフォアグラがのっているやつ!)なんかが有名。最近じゃ日本のデニーズの冬の定番メニューだよね。なぜそんなに早く音楽界に見切りを付けて、悠々自適の人生を選んだのか、今でも全くの謎だが、事実としてわかっているのは、その後彼の作品の人気は凋落、現在ではこの「セビリアの理髪師」以外はどこの歌劇場でもほとんど上演されなくなってしまったことだ。

 このオペラがヒットしているときは、ベートーヴェンも絶賛していて、ロッシーニに直接「セビリアのようなオペラをもっと書きなさい。」と言った、とロッシーニが語った記録が残っているそうだ。確かに、ベートーヴェンの推奨なしでも、この作品が良いのは十分わかるし、DVDなどで鑑賞するより、実際の舞台を体験した方が、見せ所聴かせ所がより明快で、ずっと楽しめた。はっきり言って、一昨日の「魔笛」よりも数段よいパフォーマンスであった。

 とにかく、最初から最後まで享楽的、ドタバタしまくって、ブワーっと終わる。そこに何も含みも裏もなく、徹頭徹尾楽しんでしまおうという感じだ。タラッタラッタラッタラッター、タラタタラタタラタタラッター、タラタタラタタラタタラタタラッター、ブンチャブンチャブンチャブンチャ.....。ベートーヴェン以後のクラシック界が「ゲイジュツ」しまくって、やたら堅苦しく、小難しくなっていったのに比べて、ロッシーニの徹底的な「ノー天気」さは逆にすごいなー。いやいやすごいよ。それにテクニック的にもむずかしい曲ばかりだったし、全曲にわたってクレッシェンドをやたらかけていくのが、おもしろくてたまらなかった。「やれやれ!いけいけ!」って感じで盛り上がっちゃったのだ。

 私の大好きな映画監督のフェリーニが(彼もイタリア人だわな。)「私という人間は『セビリアの理髪師』の序曲のようなもの。」って自らをインタビューで語っていたのを思い出して妙に納得した。そう言えば、ニーノ・ロータの音楽もフェリーニの映画の時だけ特別な感じだからなぁ。ベースにロッシーニがいるのかなぁ。うーむ、イタリア人っておもろい。それでいて、サッカーはあんなにセコイ試合して喜んでるしなぁ。ほんと、不思議。

 さて、今日のウィーン・フィルはめっちゃくちゃうまかった! ノリもご機嫌で踊りだしたくなるような素晴らしい演奏だった。歌手ではドン・バジリオ役のフェルッチョ・フルラネットが最高だった。彼もイタリア人で、かつてはカラヤン指揮の「ドン・ジョバンニ」などモーツァルトもので大活躍していたし、もちろんイタリアものでも素晴らしいまさに一流のバス歌手で、5,6年前にやった「フィガロの結婚」のフィガロ役は、私にとってもっとも理想的なフィガロであったと確信している。その彼の生の唄を聴けたのは、大変幸せなことだったし、一生の思い出になることだろう。

 ところで、今日は演目のせいもあるだろうが、お客もイタリア人が多かったな。あちらこちらでイタリア語が聞こえたし、「Bravo!!」の声も凄まじかった。とにかく人生を楽しむことをよくわかってるのかな、彼らは。今夜は「Viva,Italia!」でした。
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by harukko45 | 2005-01-08 00:00 | 旅行

 かつてはStaatsoperのチケットを事前に入手するには、ファックスか手紙をBundestheaterkasse(国立劇場連盟前売所)に送るしかなかったし、席の値段の範囲を最低これくらいから最高これくらいという具合に指定できるだけだった。その返事も郵送で送られてきて、出発間際までわからないこともあった。
 それに、実際の座席指定はあちらまかせで、同じ値段でも天井桟敷席(Galerie)をのぞんでも、ボックス席(Logen)を割り当てられたりしてしまった。だから、やはり実際に現地に行ってから直接買うべきだと思い、3回目の訪問あたりから、ウィーンに着いたらすぐにKasseに行くことにした。

 その当時のBundestheaterkasse(スペル書くだけでも重苦しい)は、まるで役所か銀行のようなところで、妙に威圧感があった。とにかく、そのいくつかある窓口でガラス越しに係員とああだこうだやってチケットを手に入れるわけだ。こちらがあやしい英語でいろいろと言ってると、あきれた顔で首を振って、「これしかない。一番高い平土間(Parket)席か、天井桟敷の一番端(舞台はほとんど見えない!)のどちらか!」、もしくは「すべて売り切れ、当日キャンセルがあるかもしれないから、その時にまた来い。」てな感じだった。とっても感じ悪くて苦々しい気分になったこともあったが、ちょっとした対決をしてるようで私としては結構楽しんでいた。何回かやっているうちに、うまく会話が通じたり買い方がうまくなったりしていくのも楽しかった。

 しかし最近ではインターネットのおかげで、日本にいながら1ヶ月前から座席指定できるようになった。ランク1と2の高い席はシーズン開始からすぐに予約できるのだ。席がとれたら、そのレシートをプリントしてKasseに持って行くだけになった。もう、係の人とは挨拶してレシートをチケットと交換して終わり。簡単になった。そして今回、今までのKasseが新しくなり、あの窓口のガラスもなくなった。とってもフレンドリーでスタイリッシュな雰囲気になった。ハイテクを駆使してサービスも良くなったわけである。でもなぁ、なんかちょっと寂しい。そう簡単には入れてやらないよ、って感じがなつかしい。
 
 ヨーロッパ一番の品揃えの楽譜店がDoblingerだ。ここもすごかったよ。とにかく1876年創業の老舗中の老舗ですからね。1991年に行った時、ふらっと入って楽譜をペラペラとめくっていたら、店員がすっ飛んできて、「だめ!」と怒られてしまった。ここでは、勝手に品物にさわることは許されない。ちゃんと自分の欲しいものを告げて、店員がそれを持ってきてくれて初めてさわってよろしいのだ。だから、「何が欲しいのか?」と聞かれて、適当に「モーツァルトの“フィガロの結婚”の総譜。」なんて言っちゃうから、分厚いのが出てきちゃって。で、まあ持ってても損はないし、なんて思って買っちゃたりしたわけで。

 ドブリンガーにはCD売り場もあって、ほとんどクラシック専門だった。入ると数人の店員さんたちにキっとにらまれた。まずはちゃんと「Gruss Gott.」とご挨拶するのは当然であり、その後自分の欲しいCDをやはり告げるのが流儀なのだ。最初は日本のCDショップのつもりで見るだけで出てきてしまったが、その間ずっと太ったオバさんの店員ににらまれっぱなしだった(そういう顔なだけで、本当はにらんでたわけじゃなかったかも)。そこで、次はちゃんと「ウィーンのシュランメラン音楽(ホイリゲやワイン・ケラーなどで歌われる大衆歌謡?)とチロル音楽のCDを探しています。」というと、そのオバさんが「Yah!」と言って、奥から2枚のCDを出してきて、「これがイイ!」である。それぞれオススメのを1枚ずつしか出さないわけ。で、良いと力強く断定するのだからおもしろい。もちろん買って帰った。

 それから3回目に行った時は、ちょうど教会でオルガンを聴いた直後だったので、そのオバさんがいるのを確認して店に入って行き、彼女に「オルガンのCDが欲しいのですが。」と言うと、今度は何枚かあるコーナーに案内してくれた。そこで、「あなたのオススメは?」と聞いたら、2枚ほど選んでくれた。そのうちカール・リヒターのを買ったのだった。

 久々にドブリンガーに行ってみた。去年来た時大改装していたからだ。もう、あのオバさんはいなかった。それに、譜面は自由にさわってよくなった。普通の本屋と同じようにお客があちらこちらで楽譜をさがしていた。もちろんCDも。とっても買いやすくなったし、楽になった。でも、ちょっと寂しい。これも時の流れなのかな。楽になって、こちらとしてはずっと良いのに、敷居が高いのも懐かしいなんて贅沢な注文だね。
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by harukko45 | 2005-01-07 23:00 | 旅行

 1月6日は、オーストリアでは三聖王の日で祝日だ。シュテファン寺院では朝の10時からミサがおこなわれ、ハイドンのミサ曲が演奏されるので、聴きに出かけた。私たちはキリスト教徒ではないので、信者の人たちの邪魔にならないようにパイプ・オルガンの横で立っていたのだが、オーケストラや合唱団も間近に見学できたし、何よりオルガン奏者の演奏ぶりをそばで見れたのが楽しかった。
 
 昔はハイドンには興味がなかったのだが、今では渋みがあって、無駄を排した純古典ともいうべき音楽が、とても魅力的に感じた。教会での独特の響きの効果も相まって、余計な理屈抜きで「いい曲だなぁ。」と思ったのだった。とは言え、2時間にわたるミサでずっと立っているのは少々疲れた。それに、教会はとても冷えるのだ(夏は暑さをのがれて涼むのに最高なのだが)。

 オーケストラの楽員たちも、司教さんの長いお説教のときは、そうとう退屈そうであり、セカンド・バイオリンのひとりは椅子から転げ落ちそうなくらいの居眠り状態だった。しかし、指揮者が振り下ろせば、すぐにシャンとするのは当然とはいえ、さすがだった。やはり、ミュージシャンは演奏する以外は役に立たないのはどこの国でも一緒か。

 これで、クリスマスからの祝賀は終わりで、街の飾り付けなどは取り除かれて、通常にもどるのだった。

 夜には国立歌劇場に「魔笛」を見に行った。もちろん、モーツァルトの傑作の一つであり、ウィーンで見るのは初めてだったので大いに期待していたのだが、残念ながら大きく裏切られる結果となった。こんなにつまらないモーツァルトを観るのは私としてはショックであり、ウィーンにとっては「オラがマチのモーツァルト」で十八番中の十八番であるものが、この程度の出来では「魔笛」の将来が心配にもなってしまった。

 確かに、このオペラはストーリー的にもともと矛盾があって、現代の感覚からすると共感できない部分が少なくないのだが、それに目をつぶってもあまりある魅力をモーツァルトの音楽がつくっていたのである。しかし、今回の演出では初心者にもわかりやすくするためか、余計な仕掛けが多すぎるし、衣装や美術もわざとらしい。肝心の歌手たちも若手ばかりで力量不足であり、すべてのアリアが全滅といってもいいぐらいの不出来さ加減だった。

 そして、一番納得いかないのが指揮のジュリア・ジョーンズ女史で、彼女はウィーン・フィルに古楽器風の奏法をとことんやらせようとしているのだろうか。その辺はさだかでないが、弦のヴィブラートはすごくおさえられ、サスティーンもないように弾くので、音がとぎれとぎれに聴こえてくる。おかげで、いつもは夢みるように豊かに響く弦のパートが、霞がかかったように抜けてこない。また、「魔笛」のタイトルどおり、このオペラで大活躍するフルートにも、ソロの部分のニュアンスは私が今まで知っているものとは全然違っていて、ポツポツ切れるように吹かせていた。これにはとても違和感を感じたし、本来なら感動的なタミーノとパミーナが二人で試練の場を乗り切る音楽を、まったく楽しむことができなかった。

 そしてその曲のあとに来る、パパゲーノの首つりの歌とパパパの二重唱は、まさにオペラ全体のハイライトであって、いい演奏で聴くと最高に感動するところなのだ。首つりの歌は人間の愚かさや悲しさや、それでいて愛らしさが込められた深い内容の曲であり、そこのえぐり方次第で、それに続くパパゲーノとパパゲーナの二重唱が泣けるか泣けないか決まるのである。それをただ軽やかにサラサラやられては、同じパッピーエンドであっても、大事な何かを置き忘れていて満足できない。ここには晩年のモーツァルト特有のどこか達観した視点が絶対に必要であり、そこが描けてなければ彼の音楽はただ綺麗なだけになってしまう。

 いやいや、もともとちゃんとそのように書かれている作品に対して、ちゃんと共感せずに仕事してしまったとしか言いようがない。話せば長くなるが、だいたい序曲からして変だった。この序曲だって、壮麗で気品に満ちた導入部から入って、第一主題を弦の各パートが順番に追いかけていくのだが、ここなど核分裂を繰り返しながら、一気にビッグバンするような素晴らしい展開なのに、ぜんぜんワクワクしないのである。1幕目の3人の侍女とタミーノとパパゲーノの5重唱だって味気ない感じだった。本来なら美しいメロディとアンサンブルが溢れるように次から次に流れ出て、こちらが応対するのに余裕がないぐらいで、最後に「Auf Wiedersehen」と繰り返すだけで涙してしまうところなのに!

 牧師とタミーノの問答はもっともシリアスで緊張感が漂う音楽であり、もっときびしい感じで出来るはず。だからこそ落胆するタミーノが浮き彫りになるのだし、それを慰めるフルートの旋律が神々しく美しく響くのに。パミーナとパパゲーノを救うグロッケンシュピールの音色も幻想的ではなかった。これこそ、夢の世界に行ってほしい。それには、他の楽器をもう少し鳴らした方が良かったのではないか。これだけでなく全曲にわたって、オケはもっと豊かに響かせてほしかった。

 ただし、モーツァルト先生にも一言。台本の不備の影響でやむを得ないところが大きいが、「魔笛」全曲が傑作というわけではない。いくら天才といえども、中には出来の悪いものもある。モーツァルトだからって、何でもかんでも最高と言っていては、贔屓の引き倒しになってしまう。私が思うに、2幕目に入ってしばらく今イチの音楽が続くし、場面も試練だなんだと宗教臭くなって盛り上がらない。ここらあたりが現代人にはピンとこない題材で、どうしてもお伽話風を強調した演出になってしまうのではないか。

 とにかく、これなら家でビデオを観た方が感動する。かつてジェームス・レヴァインがウィーン・フィルとザルツブルグ音楽祭でやったビデオは大好きな演奏だ。演出はジャン・ピエール・ポネルでセンスがとってもいいし、歌手もそろっているし、若きレヴァインが最高だった。とにかく、CDで聴くブルーノ・ワルターやベームのような演奏は無理としても、せめてもっと音楽中心のパフォーマンスで「魔笛」をあつかってもらいたい。そうでないと、近い将来この曲はオペラの上演レパートリーからはずれてしまうような危機感さえ感じたのである。
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by harukko45 | 2005-01-07 00:00 | 旅行

 ウィーンでも連日、スマトラ沖大地震と津波のニュースが流れているが、欧州市民の犠牲者もここオーストリア、ドイツ、スウェーデンなどで200人余りの死亡が確認され、約4000人が今も行方不明だということだ。
 
 まったくもって人類史上に残るとんでもない大惨事となってしまった。そして、今日(1月5日)正午、欧州各地で約15万人の犠牲者を悼んで、3分間の黙祷が行われた。

 私はその時間、ちょうどシュテファン寺院のあたりにいたのだが、正午と同時に鐘が鳴り響き、多くの人々が立ち止まり黙祷を捧げた。こんな時期に同じように旅行してのんきに遊んでいる自分を考えると恥ずかしい気持ちでいっぱいだが、その幸運を神様に感謝するとともに、犠牲者のご冥福を心よりお祈りするばかりだ。
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by harukko45 | 2005-01-06 00:00 | 旅行

 私の相方が風邪でダウンしたので、ウィーン到着後の2日間はおとなしくしていた。だから、バイスル(ウィーン風レストラン)にもワインケラーにも行かず、近くのスーパーで夕食を調達した次第だ。今年は例年より寒くないのだが、やたらと強風が吹いて埃がまうので、歩くのになかなか不自由するなぁ。

 とは言え、サンドイッチやサラダなどとともに、甘いものもちゃんと買って帰った。こちらに来るとどうしても甘味の消費量が増える。ウィーンはパリとともにお菓子の都だから、ケーキ店の数も多いし、こちらの人々も甘いものが大好きとのこと。よって、私のような生クリーム好きも気兼ねなく食べられるので、これまた居心地が良くなるのである。

 1日目は夕方ホテルにチェックインした後 、ウィーンの象徴であるStephansdom(シュテファン寺院)にご挨拶(?…初詣みたいなものか)に伺い、その近くのカフェ・コンディトライ(自家製ケーキ店にカフェが付属)のAidaによった。ここは他にも何軒か支店を持つ大衆的なお店。注文したのはクラプフェンとクレーメシュニッテ。クラプフェンは穴のあいていないドーナツのようなもの(イースト菌で膨らませて、揚げてある)で、中にたいていはアプリコット・ジャムが入っている。(バニラ・クリームやチョコレートのもある。)これは、スーパーのパン売り場から元宮中御用達高級菓子商にいたるまで、ほとんどの店で売っているし、他のケーキより安いので食べ比べをしてみるのである。なんて言っても、この手のものは、安いは安いなりに、高いは高いなりにうまいわけで…。あーしょうもない。

 クレーメシュニッテはまさにウィーンならではのもので、2段の厚い生クリームをうすいパイ生地ではさんだもの。一番上には砂糖をかためたものがのせてある。生クリーム自体はそんなに甘くはないのだが、全部一緒に食べるとこれがたまらんわけです。ということで、Krapfen 1.15ユーロ、Cremeschnitte 2.25ユーロ、コーヒーは飲まないでテイクアウトしたので、この場合は「Zum Mitnehmen,bitte(ツム ミットネーメン、ビッテ)」となります。

 2日目は早々とDemelに行った。デーメルはザッハーとならび、日本でも有名な高級店。何たって、入り口にK.u.K. Hofzuckerbaecker(宮中御用達菓子商)と金文字で書いてある。原宿に支店があったり、三越でも買えたりするのだが、そこで売られているのはウィーンからの直輸入ではない。原宿の店員さん曰く「ウィーン店と同じレシピで作っております。」とのことだが、本当か? だいたいケーキの大きさがぜんぜん違う。確かに我々日本人にはこちらのサイズはでかすぎるから、理解できる。しかし、サイズ半分以下で値段がほぼ一緒ってぇのもなぁ。それに甘さをおさえてないか? 日本の女性TVレポーターがお菓子の取材で必ず発する「あんまり甘くなくておいしい!」なる感想。砂糖もかわいそうに、ずいぶん日本では虐げられた扱いだ。お菓子なんだから、きっちり甘くしてもらわなければおいしくない! 私はそう思うのだが…。話がそれた。つまり、天下のデーメルも日本では今風の「甘さ控えめ」じゃないのかと疑っているのである。

 その問題は今後も追求していくとして、このウィーン店は掛け値なしで立派だ。伝統と格式を守る店内は大変素晴らしい(その分、よそ者では長居はできない感じがある)。ケーキのディスプレイもなかなか素敵なのだ。で、味はというと日本人観光客のあいだでは賛否両論なのだが、私は支持派である。 確かにものによっては、脳天かちわられる程の甘さに思わず「ごめんなさい」して、コーヒーをがぶ飲みしてしまうこともあるが、一つ一つの仕事はやはり高級店ならでは職人技があると思うのだ。だから、「甘さ」の中に歴史を経た成熟さ(退廃的とも言えるのようなもの)を感じたりもするのだ。大げさな!と思われるかもしれないが、例えば高級シャトーの年代物ワインを飲んだ(正確には、ノマセテモラッタ)時に、その味の奥行きさに何か物語を感じたりするのに似ているわけだ。

 さて、何を買ったかというと、オーベルスクレーメシュニッテ、これは普通のクレーメシュニッテが生クリームの2段サンドなのに比べて、カスタード・クリームと生クリームの2層構造になっているのだ。そして、このカスタードが卵の味が濃厚で大変素晴らしい。このケーキは他の店では見かけないので、有名なアンナ・トルテとともにデーメル・オリジナルなのかもしれない。(ザッハートルテはいろんな店で作っている。)それに、日本支店にもない。よって絶対に食せねばならないのである。それとシュネーバル、これは塩味のパイ生地を約2センチ幅のリボン状にのばし、それを巻いてソフトボール程の球状にして揚げたもの。それに砂糖の粉がかかっていて、見た目がスノーボールというわけ。ま、私には今イチでしたが。

 というわけで、Oberscremeschnitte 3.45ユーロ Schneeball 3.45ユーロなり。デーメルでお茶するのは、私には落ち着かないので迷わず「Zum Mitnehemen」となります。
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by harukko45 | 2005-01-05 00:00 | 旅行

 Gruss Gott,Prosit Neujahr! 私は今オーストリアの古き都、大好きなウィーンに来ています。ここ何年か、毎年正月早々にこちらに来て、前年からの流れをリセットするのがパターンになっていて、今年もやってきたのです。約14時間の飛行機の旅を無事に終え、ホテルに入りインターネット接続も完了し(このホテルはブロードバンドではないので、多少不便ですが)、只今の時間は夜中の2時(8時間の時差があります。)で、初の海外からのボヤキをやってみようというわけです。

 昨年はジュンコさんをはじめ我々バンドメンバーも、「大橋純子デビュー30周年」にふさわしいバラエティに富んだ、実に充実した一年を送ることができたと思います。後半、私は忙しさに追われて、このコーナーのアップのペースが著しく落ちてしまいましたが、その分「マネージャー日記」で小澤さんにもがんばっていただき、私はPhotoコーナーでバックステージの様子をお伝えした次第です。

 2004年という記念年を終え、また新たな決意、アイデアを練って、ますます頑張って行く所存でありますので、ファンの皆々様には、どうぞ今年も宜しくお願い奉りまするぅ。

 さて、ということで、お前は何でウィーンなのかと。1991年に初めてこちらを訪れて以来、私にとってはその居心地の良さにすっかりはまってしまったのです。ヨーロッパには何度かきているものの、そのほとんどがウィーンで、パリにもロンドンにもローマにもまだ行っていない。正直別に行きたいとも思わない。ここウィーンに何日間かいれれば満足してしまうのです。海外旅行を何回かするうちに、自分の感性にピタっとあう国、街、土地が見つかるようになると思うのですが、私にとってそれがウィーンだったのです。

 とは言え、私がウィーンですること、訪れる目的、楽しみは大きく2つしかありません。それは「オペラとカフェ」です。ウィーンにStaatsoper(国立歌劇場)と、市内にたくさんある昔ながらの古き良きカフェがなければ、何の魅力もないと断言します。しかし、この2つだけでもとてつもない喜び。私は、昼間街をブラブラ散歩しながら、何軒かのカフェをはしごし、コーヒーを飲みビールを飲み白ワインを飲み、お腹が空けばそこで食事し、デザートのケーキもいただく。カフェに行けば、とりあえず飲食はすべてかなうし、何時間いても文句は言われないし、つまらないBGMも一切なし。良き伝統を強く感じさせるその趣きに身を寄せていれば、時を忘れてとことんリラックスできるのです。

 夜はStaatsoperで好きなオペラを観る。世界最高のオーケストラを毎日のように日本と比べようの無い安い値段で聴ける。(おまけに安い席の方が、音が良かったりするのです。)私はこの劇場が大好きで、出来れば住みたいぐらいなのです。とにかく、オペラが始まれば非現実の世界にどっぷり浸っていられるのです。オペラを聴いているときは、私は自分が何であるか(例えばミュージシャンであるとか)などすっかり忘れることが出来る唯一の時間かもしれません。そして最上のオーケストラサウンドに包まれて、夢の中で数時間(3,4時間? 本当は永遠であってほしい。)すごすことは、私にとっては最高の贅沢なのです。

 さて、そんなわけでこれから勝手気ままなウィーンからのボヤキを何回かお送りします。たぶん、内容は上記の2点についてが主になるでしょうが、この街にいて、いろいろ気づいたり感じたり考えたりしたことも書けたらいいなと思っています。それでは、ひとまずこの辺で。
Auf Wiedersehen.
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by harukko45 | 2005-01-04 00:00 | 旅行

おやじミュージシャン和田春彦の日記でごじゃる
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