2003年、お初!
2003年 01月 25日
しかし!この札幌でのコンサート。2003年初にもかかわらず、いきなりの2時間のフルコンサート、それも2回公演とは驚き驚き。「好きな音楽、いくらでも演奏しようじゃないか。」がモットーである我々も少々不安になるのも致し方ないのである。久々のレパートリーもセットリストに復活したため、事前に各自復習しておいてもらって、当日のサウンドチェックにのぞんだ。
内容は‘シンプル・ラブ’に始まって、最近のアルバム“Time Flies”“Quarter”からの曲に、お馴染みのヒット曲や70年代ディスコ・メドレー、そして去年新録した‘微笑むための勇気’を交えた、豪華メニューである。リハーサルする時間はあまりなかったが、あとは各自の集中力・精神力、それとお互いへの信頼感で、長丁場を乗り切っていこう!と本番前に気合いをいれる我々であった。
さて、その本番。始まってしまえば、なんて事はない。ミュージシャンの性(さが)とでも言うのだろうか。久々だろうが、リハがなかろうが、演奏するうちに自然に「乗ってきてしまう」のだ。何ということだろう。実に楽しいことこの上ない。私達はこの音楽を愛しているのだと、深く感じ入ってしまう。全員が共感し、共鳴する瞬間に立ち会うことこそ音楽家の本望である!などと大仰な事を口走ってしまう自分自身も、寛大な気持ちで受け入れてしまおう。そうなのだ。こうやって、バァーッと演ればいいのである。答は奏でられた音楽そのものの中にあるのだから。
1回目のステージで、その確信を得た我々は、幕間に少しの修正を加えて、2回目にのぞんだ。この2回目のステージ、どこに文句をつけようか?いやいや、この時のジュンコさん、バンド・メンバーの演奏、それを支えるスタッフの仕事ぶりに一点も迷いはなかった。ただ、音楽するのみ。それこそが最高の満足を我々に与えてくれたのだった。そして、聴衆のみなさん。私はこの日のお客さんの多くが、我々と同じ感情を共有しあったにちがいないと思っている。そういう手応えのようなものをつかんだ気がするのである。
ここで、私は最近読んだ本の一部分を思い出す。宇野功芳著「魂に響く音楽」の中で、ドイツの偉大な指揮者フルトヴェングラーが音楽界の危機を訴えているくだりである。引用させていただくと、クラシック界で最高の芸術家の一人であるフルトヴェングラーは、まず1931年に「(当時のドイツの)コンサート活動はおそろしく衰退してしまった。理由はレコードやラジオの普及によって、明らかに実演(ライブ)とは違うレコード向きの演奏、つまり魂の抜けた芸術的完璧さのみを追究した演奏が、コンサートホールに進出しているからだ。」と語り、死の年、1954年には、「確信をもって言いうるが、現代の人々は、たとえば以前ならおよそ通用もしなかったベートーヴェン演奏ですらも、不平ひとつ鳴らさずに甘受している。」と書いている。しかし、これはジャンルをこえて、我々ポピュラー・ミュージックの世界にも現在当てはまることではないのか。(タイムラグはおよそ10〜15年、なぜなら60〜70年代のポップスの魅力を、現代のものは追い越せていない。)
そして、ここには現役の指揮者であるハイティンクの言葉が続けられている。「今日ではもはや強烈な個性を欲する人はいない。生活そのものがビジネス志向になってしまったからだ。こなさなければならないレコーディング、コンサート・ツアー。音楽を自らのやり方で演奏するために、リハーサルの時間を長く必要とする偉大な個性への余地はもはやあり得ないのだ。」
現代人のぼやきとしては 理解するが、およそ芸術家の発言とは思えない。リハーサルをとらなくとも、個性は自然に出てしまうものではないか。そういう宇野氏の指摘に共感し、今回のコンサートを経験することで、巨匠フルトヴェングラーの批判とその意図の一端を納得したのである。
だいぶ堅苦しくなったが、最後にこれに続く、遠山一行氏の言葉も引用させていただく。
-音楽家はその時代の価値観をはなれて生きることはむずかしいが、聴衆はもともと自由である。閉ざされた「音楽」のなかであくせくするのは音楽家の宿命であるが、それを開かれた場所につれていくことができるのは聴衆であり、そして、そういう聴衆の心を自分のなかにもつことができる音楽家である。「余りにも音楽的な」音楽家には、それを期待することはできない。-
全面的に共感するとともに、末端のミュージシャンとして、肝に銘じなければならない。そして、少しでも「魂に響く音楽」に近づいていきたい。それを今年の抱負にしよう。(随分、でかくでたな〜。)