最終曲(1)
2004年 02月 22日
とまあ、ちょっと専門的な話で恐縮だが、そんなスッタモンダがあったというわけ。で、実際入れてみたら、確かに音色的には充実して好みなのだが、すでに入っているボーカルやサックスなどはニューテイクのアコギのノリで演奏されているので、ここで切り刻んでカクカクのノリに変身したアコギを後付けするのは、やはり不自然だった。もうちょっと時間の余裕があったら、割と面白いトライとして生かされたかもしれなかったが、今回はあきらめることにした。
19日には、みなさん期待の土屋昌巳さん作詞・作曲・編曲による‘ミネラル・ウーマン’のレコーディングがおこなわれた。私は立ち会えなかったのだが、キーボードに難波弘之さんも迎えて、今回唯一の生ドラム(!!ゲーッ、ズル〜イ。)による強力なファンキー・セッションだったとのこと。私は打ち込みのデモを聴かせてもらっていたが、その時点でも土屋さんの魅力爆発だったから、それが生で演奏されるなんて、その仕上がりもかなりのものだったにちがいない。今回の最大の目玉になったというわけだ。
その日、私は家でこのアルバム収録の最終曲である、ケンさん作・編曲の‘Stray Eyes’のプログラミングをコツコツやっておった。うーむ、今考えるとこのギャップに少々空しさも感じるが、「もちやはもちや」ということで、これが自分なのだとあきらめろということね。さて、‘Stray Eyes’は80年代のAORを代表するサウンドをベースにした、ブルーアイドソウル風の佳曲。よって、ゴージャスなバッキングを施しながらも、そのバランスはさりげなくしなければならない。あくまで、グルーヴィなリズム・トラックとボーカルを中心にして、後でよぉ〜く聴いてみると色々と工夫されているのね〜、って感じが理想なわけだ。
と、ここまで書いてまた深くため息してしまう。あ〜あ、こうやって分析しながら音楽するのって、本当はダメだな〜って、思うんだけどアレンジャーとかいうつまらん商売の性(サガ)かな。この言いしれぬ空しさは何処からやってくるのか?
そこで、ふと考えたのだが、いやそれにしては大命題。「過去の数々のレコード、CDの中で、その時代時代にいくら脚光をあびて一世を風靡しても、時間が経つと色あせてしまうものと、いやいや全然古くならず、また新たな魅力を放つものとの違い、それは何なんだろうか?」と。しばしお付き合いを・・・。
その一つの要因に、アレンジャーの音楽とアーティストの音楽の違いがあるのでは、と考える。アレンジャーはある意味「音楽職人」であり、その傾向は「まとめる」ことにある。かたやアーティストと自ら規定する人々は、ものを「まとめる」ことが究極の目的ではない。彼らは自分を強く主張するし、メッセージを強烈に送り出す。その意志は時に音楽を破壊的にも刹那的にもする。それが、聴き手に常に刺激を与え続け、音楽としての生命力を保ち続けるのだろう。
が、アレンジャーの「まとまった音楽」はその時代性に強く影響を受けてしまう。もちろんプロデューサーやクライアントの要望にもきっちり応えなくてはならない。よって、その時点ですべてのベクトルに対して「完璧さ」を満たしたとしても、果たしてそれが時間軸を越えていくような作品にまで音楽としての魅力を持ちうるのか、はなはだ疑問に思えてくるわけだ。
それでも、とてつもなく才能あるものはそういうものを一気に越えてしまう、その最大の例はモーツァルトだと思うが、もちろん彼は作曲家であり芸術家だが、職人としての性質が大変色濃いことは、ベートーベンやワーグナーが典型的なアーティスト指向なのと比べても、明白だと思う。
モーツァルト先生のような特例をのぞいて、かく言う私だってずっと聞き続けている音楽はマイルス・デイビスやブライアン・ウィルソンやボブ・ディランであり、最近はアウトキャストのメチャクチャぶりやアリシア・キーズの輝く才能にぞっこん惚れ込んでいるわけで、やっぱりアーティスト達こそが時代を引っ張り、それを越えていくのだ。
何やらついついアレンジャーなるものに、否定的で自虐的な見解をボヤいてしまい、それがますます私が抱える空しさを増幅させる悪循環にはまっていきそうではないか。ま、考えすぎかもね。こういう思考手順は音楽をやるにはナイーブすぎるかもしれない。
ただ最近、別のプロジェクトでご一緒している方の影響で、50年代のアメリカン・ポップスやスタンダードのレコードを多く聴いた。そして、それらのアルバムでクレジットもされずにいるアレンジャー達の仕事ぶりに接して、彼らの「この曲を美しくしあげよう」とする工夫やさりげない配慮を、これまた理解してしまう自分も発見したのだった。たぶん、その当時もあまり売れなかったであろうB級アルバムでさえも、名もなきアレンジャー諸氏は懸命の仕事を続けているのである。そして、その姿勢に私は感動し、愛おしさを感じてしまうのだった。
自分自身は今まさにそのアレンジャー真っ只中な存在であるわけで、歴史的に見れば、その名もなきアレンジャー氏達の最末席に座るでろう私は、これらの先輩アレンジャー達の思いを受け継ぎ、それが結果、徒労に終わったとしても、また能力の未熟さゆえの失敗であったとしても、与えられた楽曲に対して、常に精一杯の愛情を注がなくてはいけないのである。
だから自分への空しさは封印すべし、ということをこのジュンコさんのアルバム最終曲を前に肝に銘じた次第だ。