ブルーノ・ワルターが聴きたくなった(1)モーツァルト

 年の瀬も深まり、仕事の方も今年はほぼ終わりが近づいてきて、うれしい気持ちと寂しい気持ちがないまぜになったような気分だなぁ。だからってわけじゃないが、久々にクラシック・ミュージックに浸りたくなった。

 私はブルーノ・ワルターという指揮者が昔から好きだ。持っているCDの数もクラシックでは一番多い。ワルター先生のイメージは一般的に「あたたかい」「柔らかい」「女性的」「優雅」、批判としては「厳しさが足りない」「曖昧な表現」「甘ったるい」「中庸」といったところか。
 どちらも正解で、全て当てはまると思う。ワルター先生の場合、ベートーヴェンやブルックナーあたりを振った時には上記の欠点がもろに出て、ファンとしては悲しくなることも多いが、ことモーツァルトに関しては、誰よりも至福の時間を与えてくれるのだった。

e0093608_22114078.jpg 私がクラシックを聴き直すきっかけはモーツァルトの再認識で、彼の名曲を「名演」で聴きたいといろんなCDを巡っているうちに、ワルター先生に行き着いたわけで、最初は同じ曲でもいろんな指揮者のものを聴き比べて選別していったあげく、気がついたらワルター以外のモーツァルトCDはほとんど売り払ってしまっていた。結局、他の人の演奏を聴いても、だんだんイライラしてきて、ワルターを聴きたくなってしまうからで、それなら売ってお金にして、別のワルターCDを買おうと思ったからだ。

 さて、今日選んだのは交響曲25,28,29,35番をコロンビア交響楽団、ニューヨーク・フィルとやった1953〜54年のモノラル盤。あまりにも美しい演奏で名演の極みとも言うべきものなので、続けて3度も聴いても飽きなかった。
 まず、25番。だいたい17歳でこんな曲を書くモーツァルトが凄すぎるが、ワルター先生の演奏を聴くと、他の指揮者は「やる気あんのか?!」と言いたくなるほどダメなものばかりだ。というか、先生の棒が凄すぎてとんでもない。ここまで、曲をエグリ倒すというのもなかなか出来る事じゃない。大胆なテンポチェンジや強弱、思い切ったアクセントなどいろいろやりまくっていて実はかなり過激なのだが、常に歌うことを基本に感じ入って演奏しているので嘘がなく、こちらはワクワクしっぱなしなのだ。(25番はこの後、ライブでのさらに凄いものもある。)
 28番は天国にいるような音楽で、ひょっとすると現実逃避の幻想なのかもしれない。とにかく、気品満ちた豊かな響きに、ただじっとして聴き入るのみで、その楽しさの中に天才の孤独が時々現れて、寂しさも同時に味わう。

 29番はモーツァルトの圧倒的な才能に脱帽するし、これまた夢のような魔法のようなワルターの指揮が、もうたまらない。最近、モーツァルトを聴く事は現代人の心を癒す効果があるとか言われているが、私の場合は逆に、彼の天才ぶりに遭遇するたびに自分の存在価値に意味がないことを思い知らされる。だから、私にとっては自らの「死」に一番近い音楽なのだ。考えようによってはそれが「癒し」とも言えるのかも。

 35番の超名演にはただただ平伏すのみ。これほどまでに、オケを自由自在に操れるものなのか? 見事なものだ。そして、モーツァルトの書いたフレーズ一つ一つ、装飾音一つ一つまでが全て生き生きと歌われて、こちらに伝わってくる。
 この曲はもともと当時の大富豪一家の「パーティ用」に作った曲をアレンジしたもので、職業作曲家としての巧みな演出が音として随所に施されていて、それもまた天才のやる事だから半端じゃないし、とにかく聴き手はどんどん繰り出される、たくさんの音楽の贈り物と応対しなくてはならない。しかし最後にこちらはそれに追いつけないで「まいった、まいった。堪忍してくれ!」となってしまう。
 そうすると、あの天才の甲高い下品な笑い声が響き渡り、華やかな打ち上げ花火が何本も上がってフィナーレとなる。
 そして、常に完敗の私はステレオに向かって「ブラボー!」と拍手するのである。
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by harukko45 | 2005-12-23 23:36 | 聴いて書く

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