大橋純子/クラブサーキット2011詳細(4)
2011年 08月 29日
m6.シルエット・ロマンス
"シルエット・ロマンス"にはレコーディングされているものだけで、3つのバージョンがあり、ライブでもいろいろな形でこれまで演奏されてきた。①鈴木宏昌さんのアレンジによる81年のオリジナル・バージョン、②井上鑑さんによる93年の「NEO HISTORY」でのストリングス・バージョン、そして、③2007年の泰輝さんによる「Terra」のピアノ・バージョンが、その3種類。
私がジュンコさんのバックを初めてつとめた時は82年で、この前年にリリースされていたこの曲がじわじわと売れ始めて、大ヒットとなりつつあった頃。そのせいも大きかったのだろうが、とにかくライブの本数は多かった。ミュージシャンとしてまだまだ若造だった私には、毎日が心躍る時間ばかりでしたなぁ。
当時のバンドは、美乃家セントラル・ステイション解散後に、紹介やオーディションなどで集まったメンバー。ただし、ギターの土屋潔さんのみ美乃家から引き続き参加していた。で、当然、①のオリジナル・バージョンを数多く演奏しておるわけです。
ただ、それはテレビ用にイントロが短くなっていたバージョンだった。オリジナル通りにやるとイントロだけで50秒近くなるので、テレビ局からはチェックが入ること必至(まぁ、現在でも同じと言えば同じ状況)。で、ライブでもそのようにやっていた。
また、バンドにはキーボードが二人いて、私は主にシンセやオルガンなどを演奏し、何曲かでサックスを吹いていた。なので"シルエット・ロマンス"では、もう一人のプレイヤーがピアノでベーシックな役割、私はオーボエやストリングスなどのパートを受け持っていた。
で、このイントロのオーボエをミニ・モーグでやっていたっけ。いやぁ、名機だったなぁ。ただ、すぐにチューニングが狂うので、1曲終わるたびにチェックしないと。そういうところが逆に楽器っぽいところかも。
ストリングスなどはコルグTRIDENTを使ってた。これは私が初めて買ったシンセ。これも素晴らしいシンセで、ものすごく重宝した。
あともう一つ、絶対欠かせないシンセがヤマハのDX7(初めて登場したのは翌83年だ)。DX7はエレピを始め、キラキラしたベル系の音、マリンバ系の音などなど個性的なサウンドを持っていて、まさにこの時代(80年代)は、キーボード・プレイヤーが必ず持っていなきゃいけないものだった。仕事したけりゃ、DX7とアナログ・ポリフォニック・シンセを借金してでも、持っていること。これが必須条件だった。
それから、ローランドのディメンジョンD(SDD320)とデジタル・ディレイも必ず常備してないとね。これらのエフェクターは地方ではレンタルできなかったりしたので、重いラックを手持ちで持って行くことも多かった。
この当時、私の回りのキーボード仲間で、はやっていた使い方は、例えばDX7のエレピ音にデジタル・ディレイ(ローランドSDE3000など)で30msぐらいのショート・ディレイとモジュレーションでコーラスっぽいエフェクトをダイレクトで通し、それをミキサーのプリ・フェーダーからディメンジョンに送る。それの帰りをミキサーでバランス取るってやり方。この時のディメンジョンのスイッチは3あたり。4だとかかり過ぎって感じ。これで、気持ちよくステレオに広がる。
ストリングスなんかも実にゴージャスになって、大きな壁を形成するのでありました。
他にも、この頃はエフェクターもいろいろ面白かった。
また、DX7はバックアップ用に携帯できるメモリー・ロムがあったが、アナログ・シンセにはそのような便利で安全なものはなく、かろうじてカセットテープにデータを録音しておくしかなかった。が、これがまたよくトラブルを引き起こした。
とにかくよくメモリーが飛んで(特に外国製のもの)、バックアップのテープも100%の信頼はなく、本番前に音色を作り直すってことにもなった。ただ、アナログ・シンセを取り扱うのは比較的簡単だし、直感的にいじくり回してサウンドを作れたので、面白かったことも確か。
また、私がもっていたコルグTRIDENTがレンタル会社になく、場所によってはプロフェット5、オーバーハイムOB-8、ジュピター8、ポリ6などなど、日によってちがうシンセを使うこともあった。それでも、ちゃんと対応できていたのだった。
私もその後、いろいろなシンセに手を出し、その最後の大物はドイツのPPG wave2.2だった。ケースも入れて250万以上のものを、「頭金なし、男の60回ローン」で即決買いしたっけ。この無茶ぶりで、20代はローン地獄でした。
おおっと、またまた大脱線ですが、とにかくですね、"シルエット・ロマンス"がはやった頃っていうのは、そういう時代だったという、一つの思い出話。
いい意味でも悪い意味でも「派手な時代」だった。
"シルエット・ロマンス"も、①が一番派手。あたりまえだけど。私には、この時の日本全体に漂う「豊かさ」が感じられる。
ちなみに、この頃のジュンコさんのコンサート・ツアーでは"たそがれマイ・ラブ"はメニューにはなく、中心になったのはアルバム「黄昏」(82年)や「POINT ZERO」(83年)の楽曲で、確か収録されていた曲のほとんどをライブでやったと記憶している。それと、洋楽カヴァーのメドレー。82年はビートルズ、83年はドゥービー・ブラザーズのメドレーだったと思う。
特に、「POINT ZERO」のツアーは印象深い。ニューヨーク録音によるこのアルバムは、いろんな意味で刺激的だった。ニューヨークでのトレンドは、この時すでにHip-Hop的ニュアンスだったということ。ローランドのリズム・マシンTR-808(通称・ヤオヤ)のビート、エレクトロ・ファンク(もしくはエレクトロ)、ヨーロッパのテクノとアメリカのファンクの融合、そのきっかけはアフリカン・バンバータとアーサー・ベイカー、ラップ、サンプリング....。
そういった新しい空気感を身近に感じながらも、ごくごく自然に楽曲に取り入れているのが良かった。そこに無理やわざとらしさがないので、それまでのAOR的なサウンドとうまく両立しているのだった。
デイビット・サンボーンらフュージョン界のスター達も参加している「POINT ZERO」は、今でも私には新鮮だ。
でもって、この時のツアーでは、もう一人のキーボードであった大浜和史(オーハマ・センセイ)さんが生ピアノ、フェンダー・ローズ以外にもヤマハDX10を使い、TR-808のプログラミングもした。私は、上記のシンセ群(ミニ・モーグ、DX7、トライデント)にオルガン、それに加えて、オーハマ・センセイから借りうけたアープ・オデッセイでシンセ・ベースを弾いた。で、時々サックスね。今じゃ、考えもつかないセッティングじゃわい。
コンサートの1曲目は、オッサン(土屋さん)のカッティングから始まる"In Your Lovin'"、中盤でドゥービーズ・メドレーと"Dancin'""Sensual Night"という最先端のダンス・チューンを続けたのが、ハイライトだった。
もちろん、"シルエット・ロマンス"もこの時から重要なレパートリーとして欠かせない曲となった。でも、確か3曲目か4曲目にやったと思ったな。それぐらい、ジュンコさんだけでなく、我々バンドにとってもアルバムの曲の方が大事だったのだ。
さてさて、今年のクラブサーキットでやった"シルエット"は、私とオッサンのみのバックでのバージョン。これは、私がチーム大橋に復帰した90年代後半にすでにこのアレンジだった。私は前のバンドからの流れを引き継いだ。ただし、イントロはまだ「テレビ・サイズ」だった。だが、その後何かのきっかけで、オリジナル通りに戻した。そして、オッサンが加わって、より叙情性豊かな世界が付け加えられた。私は、この形での"シルエット・ロマンス"が一番美しいと思う。