ウィーンにて、その9ドン・ジョバンニ

 「ドン・ジョバンニ」はモーツァルトの最高傑作とも言われるオペラ。私は「フィガロの結婚」とどちらを上位に置くか、いつも迷う。と同時に、両方とも大好きで一生つきあうに違いない永遠の恋人と思っている。「フィガロ」は考えるだけで楽しい気分になり、「ドン・ジョバンニ」は聴くたびに深みを感じる。
 
 いろいろなCDや映像を聴き比べ(見比べ)て、自分のお気に入りを探すわけだが、「ドン・ジョバンニ」の場合、CDではブルーノ・ワルター先生のメトロポリタン・オペラでの古いライブ録音に行き着いてしまった。正直これを聴くと他の指揮者はただのメトロノームに思える。それほどまでに曲のえぐり方が凄いし、指揮の凄まじさに圧倒されて、ライブゆえの乱れも歌手の出来も気にならない。映像ではカラヤン指揮のザルツブルグ音楽祭でのライブかムーティ指揮のミラノ・スカラ座のを楽しんでいる。指揮者の凄さはワルター先生にはともに及ばないが、好きな歌手が出ているし、演奏・演出・出演者のバランスがとれているのだ。

 さて、昨夜は小澤征爾氏の指揮で、出演者にはドンナ・アンナをエディッタ・グルベローヴァが演じるという破格の幸運にも巡り会えて、大いなる期待と不安を胸にStaatsoperへ恋人に会いに出かけたのである。

 序曲は有名な地獄落ちの音楽から始まって、まもなく陽気な音楽にかわって盛り上がるのだが、ここらあたりで本日のシェフの特徴がわかってくる。ワルター先生は、非常に厳しい導入部から陽気なパートに移ると速いテンポでまったく気分を緩めること無く、さらにアッチェルをかけるように一気にたたみ込んで行く。フルトヴェングラーは逆にものすごく遅くてベートーヴェンの大シンフォニーのごとく分厚い音でノシノシと進む。いずれにしろ過去の巨匠たちはこのオペラの裏側をえぐりだそうとするのだが、小澤氏は、そんなものは何もないように進めた。譜面通りと言えばその通りだが、やけにきちきちと演奏されるので、何とも先が思いやられる。

 序曲の最後からそのまま1幕目の導入の音楽につながっていき、ドンナ・アンナをものにしようとして彼女ともつれ合うドン・ジョバンニは、アンナの父の騎士団長に見つかり、そのまま決闘し、騎士団長を殺してしまう。婚約者のドン・オッタービオをつれてきたアンナは父の遺骸を見て悲嘆にくれ、オッタービオに復讐を誓わせる。

 ここの音楽を幼いチャイコフスキーはとても恐ろしがったという。もう何度も聴いているから恐いことはないものの、緊張感を持続させてアンサンブルをきびしく決めてくれれば、聴き手の私はワクワクしっぱなしの大好きなオープニングだ。しかし、小澤氏は強姦未遂も殺人も復讐の誓いも何も関係なしに淡々とこなした。感情移入しようとするグルベローヴァをはじめとする歌手たちは、オケよりも前のめりになっていき、小澤氏のタクトがもたもたと後からついていっているように聴こえた。最後には、アンナとオッタービオとオーケストラはそれぞれ歩み寄ることもなく、我が道を行くになってしまった。

 ジョバンニを追ってやってきたドンナ・エルヴィーラに向かって従僕のレポレッロが主人の犯した女のリストを読み上げる「カタログの歌」は、前半の得意げに歌う楽しい部分から、後半テンポをおとして彼女に同情的になり、哀愁をおびたムードになるのだが、小澤氏はあまりにもテンポを遅くし過ぎ、最後にもっと遅くしたので止まってしまいそうになり、どっこいしょという感じで終わった。この日のレポレッロは中国系と思われる若手のバス歌手だったが、残念ながら技量不足は否めず、オケのゆるみをカバーするほどの力はなかった。カラヤンのビデオでのフェルッチョ・フルラネットの豊かな感情のこもった名唱を思い出してしまう。

 その後も小澤氏と歌手たちとの折り合いは悪く、一向に落ち着いて音楽に集中できない。だんだん気づいてくるのは、小澤氏のノリはモーツァルトのそれとは違うのではないかということだ。モーツァルトの音楽には絶対に愉悦感あふれるノリの良さが必要だと思っているが、そのノリ方が根本的に違うのではないだろうか。我々がポップスの世界でニューオリンズのノリだ、ブラジルやキューバのノリが云々と言って、自分たちのノリ方との違いを語るのと同じ問題を感じ始めた。確かに同じ譜面で、同じ音符なのだが、小澤氏から引き出される音は一つ一つが律儀すぎて、長さも強さも同じように聴こえる。それは私がいろいろなCDなどで聴きなじんでいるものとは違うノリだということだ。その音に彼の何らかの強い意志がこめられているのなら、新鮮な響きとして歓迎するが、そこまでのものはあまり感じられない。

 結局、1幕のフィナーレはモーツァルトの最高の音楽の一つにもかかわらず、ちぐはぐなパフォーマンスは改善されず、感動など何処へやら、この前の「魔笛」のように、「ドン・ジョバンニ」よお前もか! とひどく落胆した。私だけでなく全体に聴衆も盛り上がっておらず、冷ややかな拍手で1幕は終了した。

 さあ、ここまでひどい姿の愛しの恋人の今後は、どうせならもっととんでもないことになって、スキャンダルにでもなったらどうかなどと、ヤケッパチな気分でかなり悲観的に考えざるを得なかった。せっかくのウィーンもさんざんな夜になったもんだと思った。

 ところが、2幕目に入って、がらっと雰囲気がかわった。我々の現場だったら、楽屋で緊急ミーティングして、それぞれの部分を確認しあったり気合いを入れ直したりといったところだが、まさかStaatsoperでそんなことはないだろう。(意外とあったりして!!)とにかく、2幕での小澤氏は別人のようにすべてを掌握していた。また、彼にとって幸運なのは、1幕目が各登場人物の人間性を浮き彫りにしていくために多彩な表情が必要なのに比べて、2幕目がずっと夜の暗闇のシーンであり、音楽は主人公の地獄落ちに向かってジワジワと集約していくように書かれていることだった。

 小澤氏は2幕目最初からしばらく室内楽のような静けさと落ち着きでじっくりと聴かせてくれた。これは大変効果的で、本当にうっとりさせられた。そして、ドンナ・アンナの長大なアリアにおいて、グルベローヴァが会場中を熱狂に包み込む素晴らしい歌唱を披露したことで、この後の成功は約束されたのだった。彼女への賞賛の拍手は全く鳴り止まず、そでに引っ込んでいた彼女はもう一度舞台に顔を出さなければならなかった。我々はスタンディングで迎えた。

 もう一つ、とんでもなく素晴らしかったのが、地獄落ち前のジョバンニ邸での晩餐シーン。ここでは、楽しげに楽士を入れてジョバンニが食事するのだが、この舞台上で演奏される室内楽の抜群のうまさったら!! ウィーン・フィルの楽団員が衣装を着て演奏し、軽く演技もするのだが、この間オケピットからは彼らを冷やかしたりはやし立てたり、とくにクラリネットが圧巻にうまく、全員のキビキビしたノリも楽しくってたまらなかった。ここでは小澤氏は振らずに彼らにまかされているのだが、そうそう、これだよ、これ!このノリだよってうれしくなってしまった。

 そして、楽しい晩餐中にエルヴィーラが来て、ジョバンニに改悛をすすめるが彼は拒否、その直後、殺したはずの騎士団長が墓場の石像となって現れ、再び改悛を迫る。が、ジョバンニはあくまで拒否、石像は彼の手を握って地獄に連れて行く。このクライマックスを最大限に盛り上げるために、それまでぐっと抑えてきた効果が見事に生かされた。静謐に進めることで、聴衆は息をひそめるように聴き入り、音楽に集中していったのだった。それが、最後の地獄落ちを強烈に印象づけたのだと思う。この小澤氏の指揮ぶりはお見事というほかないし、敬服した。

 まさに「終わりよければすべて良し」とあいなって、カーテンコールも何度もつづけられ、不安な夜は幸福な夜に変身したのだった。それにしても、モーツァルトの無駄がなく、空間を生かした洗練された音楽、美しさの中に毒を含んだ深みのある内容、あらゆることを音楽で表現してしまうその才能にはただただひれ伏すのみだ。彼は「ドン・ジョバンニ」を33歳で書いた。死はもう2年後だった。私は200年以上前に書かれた彼の音楽にこれからも夢中になりっぱなしだろう。
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by harukko45 | 2005-01-14 00:00 | 旅行

おやじミュージシャン和田春彦の日記でごじゃる
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